July 2020

逆境、希望、救い

By | 2020-07-11T14:24:57+00:00 July 11th, 2020|

逆境、希望、救い 「私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください…」(詩篇102:2)。 詩篇102:1−12は、苦しみの只中にある人による祈りです。私たちにも彼の気持ちがわかると思います。彼は神さまの前に、心の内を、恐れや悲しみを吐露しています。彼はあらゆる方向から押し潰されそうに感じています。彼の敵について、そして自身の身体の状態について述べています。その一方で、問題の一部は、作者が神から遠く離れていることなのだという印象を受けます。 これは、ダビデ自身における個人的なあがきなのでしょうか、または神さまが彼の行動を喜ばず、彼の悔改めを待っておられるのでしょうか。理由がどうあれ、これは誰にとっても、危険をはらんでいる場面です。 この状況で、どうしたら神さまの前に来ることができるでしょうか。彼は身体的・精神的にも、霊的にも渇き切った状態であることが見て取れます。ダビデは水が必要でした。彼は、彼の生命をうるおしてくくださる聖霊さまの臨在が必要でした。ここで言及されている鳥は、砂漠や荒地に住んでいるもので、死や破壊の象徴です(6節)。 興味深いことに、ダビデは孤独さについて屋根に止まっている鳥のようだと表現しています(7節)屋根の上でひとりぼっちだというイメージは、いつのダビデだったのでしょうか?それは彼がバテシェバを見たときでしたが、それは彼をどのような状況に導いたのでしょうか?彼が居るべき処に居なかったが故に、その状況に陥ったのです。 ダビデの苦しみの深さは、彼の盃が涙で満たされることで表現されています(9節)。全ての人が彼にあらがいます。御言葉の中で、彼ほど蔑まれた人がいるでしょうか?私たちは、まさにこの場面にイェシュアを見ます。空虚さの中から、神さまから遠く離れ、数人どころか全ての人々が彼に叛旗を翻す中で、アッバ(お父さん)に叫び求めます。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」(詩篇22:1; マタイ27:46) これは何も包み隠さない、透明な弱さであり、疑念なのであり、私たちも自身の中にも潜んでいるものです。12節では、ダビデに何かスイッチが入り神さまに顔を向けます。「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。」 神さまがどういうお方か、何を約束されているかを宣言することで、変化がやって来ます。この詩は、ここで1人の人だけが苦しんでいるのではなく、私たち全てが苦しみに喘いでいるのです。誰も苦しみのもがきや、試練、悲しみに対して、免疫を持っていません。神さまは私たちが神さまに顔を向け、全面的に信頼するようになることを望んでおられます。 ここ20節で言及されている囚われ人とは誰で、その意味する牢獄とは何なのでしょうか?神さまの救いの中に住んでいない人にとって、死への恐れが最も強大な牢獄の一つです。主は、この世のプレッシャーを超越したところへ、私たちを導かれます。讃美とワーシップに深く入るとき、私たちは、聖霊に満たされ神さまに感謝を捧げます。私たちは混乱や、恐れ、疑念から脱出する方法を見つけるのです。 ここに、私たちは一人で屋根に止まっている鳥から「新しく変えられ」、鷲のように全ての状況を超えて、滑空するのです(イザヤ40:29-31; 詩篇103:5).

いのちをもたらす5つの苦しみ

By | 2020-07-03T15:43:05+00:00 July 3rd, 2020|

いのちをもたらす5つの苦しみ 私のお気に入りの箇所の一つはピリピ3:10です。ここでは、パウロは牢獄に入れられていて、神に助けを求める代わりに、彼はこう言いました。 「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、」 ほとんどの人々がこの箇所の最初の部分を読んで止まります。しかし、考えてもみて下さい。復活の力を得るためには、まず初めに死ぬ必要があります。最初に死なない限り、死から復活したものは誰もいません。私たちはこの死を受け入れます—主の苦しみに入っていく—福音のために苦しみを受ける事によって。 以下が苦しみの5つの霊的な利点です。 1.苦しみと共に親密が来る 苦しみを通してのみやって来るイエシュアとの親密さの度合いがあります。パウロは、主の苦しみに参加する事を、メシアを知る事と同等に捉えています。 イエシュアは、私たちに主と共に苦しむよう招いている 何年も前に、私は特に苦しい状況を通り抜けた事があります。それは大変困難で、私はミニストリーはもう終わりだと思いました。私は、その状況で自己弁護する事が出来ましたし、多くはそうすべきだと励ましてくれました。しかし、イエシュアの言葉はこうでした。「私と共に死ぬようあなたを招く」すぐに私は「はい」と答えると、私の魂に平和が訪れました。そして、私は、主が嫌疑を晴らして下さると分かりました。そして、実際数か月以内に主はそうされました。もし自分で自己弁護していたら、私は主の介入を邪魔してしまった事でしょう。 苦しみは成熟をもたらす 聖書大学で、ある若い「預言者」がやって来て、奉仕をしました。彼は18歳で、明らかに油注がれていましたが、私たちの部長が「年月のみが知恵をもたらす」と言って注意喚起しました。数年後、彼は同性愛者である事が分かりました。ヨセフが10代の時、預言的な賜物がありましたが、それを用いるには未熟でした。不注意に語ってしまったため、彼は奴隷になってしまいました—そして、囚人になってしまいました。それから何年も経ち、試練の後、彼は召命を受けるに十分な成熟をしました。彼の苦しみは彼を整え、数時間という時間の中で、彼は地上で最も強力な人物になりました。 召命が大きいほど、苦しみも大きい ダビデ王は若者の時王となる召命を受けました。しばらくの間、物事は順調に進みました。彼はサウル王のために竪琴を奏でるよう呼ばれました。ゴリアテを殺し、将軍となり、正当な世継ぎであるヨナタンから、彼の代わりに王となる約束を得ました。そして突然、サウル王は彼を殺そうとしました。十年間、彼はサウルから逃げるという困難を経ました。しかし終わりには、これが彼を整える事となりました。年を取るにつれ、より成熟し、ダビデにはサウルを殺す機会が2度ありましたが、彼は殺しませんでした。彼は成長し、そのすぐあと彼は王になりました。 死からいのちが来る パウロは1コリント4:10-12で、もし私たちが福音のために死を受け入れるならば、それは聞く者にいのちをもたらすと言いました。福音のために耐えた全ての苦しみは、彼が福音を伝える事に強力な油注ぎが施されました。私の家族は1年間、革命後それほど経っていない時ウクライナで暮らしました。私たちは虱だらけのアパートで悩まされました。毎晩お手洗いで下水が逆流し、マフィアから脅迫されました。それは大変でした!しかし、最後に、私たちは今も成長している新しいコングリゲーションを残す事が出来ました。 苦しみは喜びからかけ離れていますが、神があなたが召命を受けてなるべき人になるには、単純に他の方法はないのです。

June 2020

問題から逃げる?

By | 2020-06-29T10:36:17+00:00 June 29th, 2020|

問題から逃げる? アシェル・イントレータ* 「患難」について話す時、多くの人は即座に終末時代のシナリオを連想します。しかし私たちは逆境に対する一般的な態度に注目する必要があります。信者として問題が起こったとき、どの様に反応するべきでしょうか? 新約聖書のギリシャ語スリプシスは、「患難、苦痛、問題、苦悩、迫害、重荷、抑圧と訳される語彙です」。これは45回の出典があります。言及されている内容を、簡単に調べてみたところ以下の通りです: 38回は、逆境の中を歩む中で、強められ、助けられ、勇気付けられ、救い出されると書かれており 7回は、この質問には関係がないと思われ、 信者が逆境を経験することはないとか、逆境に対処しなくて良いよう、この世から取り除かれるという約束はゼロ、皆無なのです(!) ギリシャ語のスリプシスに当たるヘブライ語は、ツァラーです。ツァラーは「問題、苦痛、逆境、苦悩、患難、きついこと」と訳され、律法書と預言者書の中で73回の出典があります。また、言及内容は以下の通りです: 69回は、問題の中を歩む中で、神に叫び求め、守られ、救い出され、強められると書かれており、 3回は関係がないように思われ、 1回の例は、苦痛が取り去られ、または避けられたとありました。 詩篇の中の多くの祈りは、逆境の中にあって神さまに叫び求めるものです。救いのヘブライ的概念は、救い出されること、悔い改め、浄化、敵の攻撃の中にあっての守りなのです。   独りではない 私たちの信仰の局面の一つは、問題のある時にどの様に対処するかを学ぶことです。神さまは、特に問題のある時にこそ臨在される方です(詩篇46:1、91:15)。 不道徳がこの世の支配的な文化であるため、義の道を歩もうとする人々にとっての規範的経験は、困難に直面しなければなりません。 「患難前携挙説」について私が懸念していることの一つは、それが間違った終末論であること以外に、逆境に対処する一般的な姿勢としてです。信仰は困難の中にあって、助けてくれます。神さまは試練や患難の中で、救い出してくださるのです。困難な状況に忠実に忍耐をもって、対処する中で、品性が練られます。リバイバルは多くの場合、迫害を伴っています。 あなたは何の種? 逆境にどう対応して良いか分からない人は、マタイ13:21の2つ目の種のようです:「しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」 「患難前携挙説」と「慰めだけ」タイプのメッセージの両方は、根も、品性もなく、これから先に私たちが遭遇する困難な日々に耐えられない信者を作り出してしまいます。イェシュアのたとえ話のように、多くの人が早々とつまづきます。信仰により逆境に対処し、日々の救いにおける神さまの力を知ることは、私たちの世代にとって、非常に重要なのです。 使徒14:22 – 「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない』と言った。 [...]

コロナ陰謀を恐れるな!

By | 2020-06-20T17:38:45+00:00 June 20th, 2020|

コロナ陰謀を恐れるな! 「親愛なる皆さま、私は人をあざけるために書いたのではありません。これは、祈りとみ言葉に時間をかけた時に私から注ぎ出たもので、愛の心と神の人々への深い懸念から出たものです。」 注意して頂きたいのは、私は「陰謀論」とは書かず、「陰謀」と書きました。ここに、様々な陰謀論になる可能性のある仮説、それらは「理論」ではなく、真実なのですが、それから始めてみましょう。 OK、では何でしょう。 疑問:どのように反応すべきか? 中国政府が毎日中国にいるクリスチャンに対して陰謀を企てている事実について、彼らの反応は何でしょうか。福音を伝えました。なるべく多くの人々を勝ち取る事です。ローマの迫害下にある信者についてパウロの反応は何でしょうか。福音を伝えました。イエシュアへの違法な裁判と処刑に対する使徒の反応は何でしょうか。福音を伝えました。です。又は、彼らが捕らえられ、暴行を受けた時は?(使徒3-4)? 福音を伝えました。イエシュアの最後の言葉は何でしたか?「ビル・ゲイツについて人々に警告する事だ」でしょうか?いいえ、私はここで皆さまを笑わそうとしているのではなく、要点を突きたいのです。主の最後の言葉は、世界へ出て行って弟子を作るように命じました。パウロは獄中何をしたでしょうか。彼は皇帝ネロの事を心配したでしょうか。いいえ、手紙を通して教えていました。 私は、不法や悪を企む人々を無視せよと言っているのではありません。(もちろん、私たちは少しのフェイスブックの記事よりも、さらに多くの証拠が必要です。) 諸国が陰謀を企てる 獣の印なくして売買がいずれ出来なくなるという事は驚く事ではありません。世界の政府が信者に立ち向かい、私たちを迫害するその日はいずれ来ます。 現在大勢の人が集合する事が推奨されない事について、それは教会を閉鎖させるために行われたのではない、と私は思っています。ですが、その日が確かに来るので、これは練習するのに良い機会だと思います。彼らは神とメシアに対して「陰謀を企てる」のです。 なぜ国々は騒ぎ立ち、 国民はむなしくつぶやくのか。 地の王たちは立ち構え、 治める者たちは相ともに集まり、 主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。(詩篇.2:1-2) 神と主の民に対してある特定の権力が悪を企てる事実はニュースでもなく、衝撃でもありません。それは大昔から預言されています。問題は、私たちはそれに備えていますか? 私たちは、諸国による憤怒、陰謀の企てを、その諸国を創造されたお方よりも恐れがちです。私たちが人の陰謀に悩む時、私たちは神を矮小化します。来る悪役はチャールズ皇太子でもなく、WHO(世界保健機構の方、バンド名ではなく)でもなく、ビル・ゲイツでもなく、ファウチ博士(アメリカ国立衛生研究所の所長)でもなく、反キリストであり、しかし、彼は神の御手の中の単なる操り人形に過ぎません。3年半、この強力な人物はエルサレムに触れる事が出来なくなります。それは、炎を吐き、「いつでも望む時に地を疫病で打つ」事の出来る二人の証人が、エルサレムの旧市街からイエシュアを宣言するまで、彼(反キリスト)を留めます。この二人が天に去った後、彼(反キリスト)は聖なる街を攻撃するのです。(ゼカリヤ14:1-2) 全ての人の計画が企てられても、神はこのようにします。誰も神の目を覆う事は出来ません。(5G通信塔または偽のワクチンであっても)全くの反対です。彼らは知っても知らなくとも、彼のしもべなのです。最後の7年間、イエシュアの再臨前に、疫病、地震、飢饉の中で、彼らは大いなる悪の計画を実施するのが困難となります。一方信者はそのほとんどから守られます。それは、過越の疫病からイスラエルの民が守られたようになるのです。地上の人々にとって恐ろしい時となります。 「それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。それはあなたがたのあかしをする機会となります。」(ルカ21:10-13) 「私は天に向けて誓う」(キース・グリーンのゴスペルの題) [...]

アメリカへの預言的な言葉

By | 2020-06-15T14:09:24+00:00 June 15th, 2020|

アメリカへの預言的な言葉 友人なる皆さん、32年間のミニストリーを通じて、国家レベルについて、神から一人称で語られた事をシェアしたことはなかったと思います。しかし。今日妻とテルアビブからアシュケロンへドライブしていた時、私は祈り始め、神さまが何か語ろうとなさっていると思いました。「人々はあなたが(オンラインで掲示したもので)自分の政治的意見をシェアしているのだと思っている。しかし私は、彼らが私の心を聴けるよう、あなたに預言して欲しいのだ」と語り始めました。 そして主は心の内を語り始めました。私は目的地に着くやいなや、それを書き止めました。以下が、主がお語りになるまで、私自身は考えもしなかった事の数々です。 新約預言は常に部分的であり(第1コリント13:9)、我々の人性のフィルターが通されたり、人により裁かれたりするものの、ないがしろにすべきものではありません(第1テサロニケ5:20-21)私自身の言葉は「」に入っていない部分です。 私は、主を畏れつつ、謙虚に、こちらを主の御身体に捧げます: 以下が、聖霊さまからアメリカへのメッセージだと、私が理解したものです: 「政治的に起こっている事について、手をつけてはいけません。そうしてしまうと、あなたは右か左か、どちら側かに付く必要がでてきます。しかし私は天の御座に着いていて、政治的に右でも左でもありません。それらを超えた天なのです。 「こういうわけで、もしあなたがたが、メシアとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはメシアが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、メシアとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:1-2) 「『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。』(イザヤ55:8)」 「あなた方は、『けれど、ああです』や『それでも、こうです』と言うでしょうが、私はあなた方に従順さを望んでいます。貧しい者、傷ついた者たち、心砕かれた者らについて、私の言葉には何と書いてありますか?政治的主義を選べ、とあるでしょうか?それとも、彼らに手を差し伸ばせ、とあるのでしょうか?私からの愛により手を差し伸ばすことには、右翼的解決も左翼的解決もなく、代わりに私の恵みと力を解き放つ、天に向いた解決があります。」 「『白人の教会』にいるあなた方が求めるリバイバルの鍵は、白人教会が、私からの愛、癒しの力、実践的な支援…[相手の声を聴き、仕え、可能であれば、個別に指導・助言する]をもって、黒人コミュニティに手を差し伸べなさい--私は、あなた方が彼らと生命/人生を分かち合うよう、召しています。 「私は、略奪者や犯罪者を犯罪正義のシステムに従って取り扱うが、それでも私がイスラエルを裁くためアッシリアを用いた様に、彼らにも目的があるのです。(イザヤ10:5-6)最終的にはアッシリアをその行い故に裁いたのです。」 「しかし私はあなた方に、アメリカの黒人たちを、より深く見、私の癒しをもたらして欲しいのです。他の答えはありません。私の声を聴きなさい、『他の答えはないのです!』私の身体となりますか?私の腕となってくれますか?私の心は、彼らのために砕かれています。あなたの心はどうですか? 「やがて来るリバイバルを預言するのに、何故私はカンザスシティ・チーフス(アメフトのチーム、チーム名は市長のニックネーム(チーフ/酋長)に由来。ロゴは矢じりをデザイン)のシンボルを用いたのでしょうか?チーフスはネイティブアメリカン、つまり抑圧された共同体です。砕かれており、飢え渇いて(原文はin need/困窮して)います。 [ある人はこう尋ねます「(ネイティブアメリカンの方たちは)いつまで遺恨を背負い続けるのでしょうか?奴隷制が合法であった時代から、何年経っているのでしょうか?」。答えはシンプル、—癒されるまで—です。] 「リバイバルを求めるなら、あなたの地域社会やゲートコミュニティ(壁に護られ、ゲートで外部からの侵入を防いだ地域共同体)を離れるべきです。あなたの財産や経験を、あなたの属する共同体以外の人々にシェアする必要があります。あなたはその意志がありますか?あなたにとってあなたの人生とは何なのでしょうか?あなたは代価を払って買い取られたのです。(第1コリント6:20)」 「ヘブル人預言者の叫びとは何だったのでしょうか?彼らの心を見てみましょう。彼らが政治界に入ったとき、それは私の言葉を解放し、不正に反論するためでした。彼らは、心砕かれた者たちや、孤児、父無し子、やもめに代わって叫び声を上げたのです。」 「『わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。』」(イザヤ58:6) [姦淫の罪で捕らえられた女、良きサマリヤ人、物乞いかららい病者、売春婦に至るまで、イェシュアが触れられた不可触民の全て。] [...]

コロナとの比較:疫病と祭司

By | 2020-06-07T14:01:31+00:00 June 7th, 2020|

コロナとの比較:疫病と祭司 ダニエルと共にどうぞ祈りに加わって頂けますか? 「私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。」(ダニエル書9:4-7) この時に、私たちの世代がこの地にいる事は、何と言う特権だろうかと考えざるを得ません。 コロナウイルスという現代の疫病に世界が直面している事について、これは奇妙な言葉だとあるものは考えるでしょう。しかしながら、どれほどの世代の信者たちが、メシアの再臨が近づいているこの終わりの日々までに、過ぎ去っていったでしょうか。疑問は、私たちは何をすべきで、何を期待したら良いのでしょうか。 同じような終わりの日々の「症状」ヨセフの時代にエジプトで診られたもので、それはヨセフが自身を彼の兄たちに示す前でした。彼は何をしたのでしょうか。彼は全てのエジプト人に部屋を出るように言いました。私たちの時代には何が起こったでしょうか。海外からの観光客はイスラエル入国出来なくなりました。メシアがご自身の民に示される時期が迫っているのでしょうか。 疫病が蔓延し、出エジプトの前にヘブル人はゴシェンの地にいました。ゴシェンは疫病が蔓延したでしょうか。そこには暗闇があったでしょうか。いいえ、実際、ゴシェンへの災いは、死の御使いが通り過ぎただけで、家々のかもいには犠牲の小羊の血が塗られていました。今日の災い(疫病)が街々を蔓延する中で、私たちはイエシュアの血でおおわれていなければならず、主の証人として進む必要があり、信仰と希望に満ちていなければなりません。勝利は私たちのものではなく、私たちを通して主のものであり、他者が主の平安を経験するためです。 神は、エジプトで、1つの災いだけですべてを成し遂げる事が出来ます。なぜ、ファラオの心が何度も頑なになるようなプロセスを何度も起こさせる必要があったのでしょうか。私たちが最近世界中で起こっている災害について考える時、何を見るでしょうか。地震、火山、洪水です。残念ながら、人々はこれらのものをやり過ごし、過去のものとして、元の生活に戻ってしまう傾向にあります。 民数記16:41-50に、なぜ神は時々繰り返されるのかが書かれており、それは、私たちがそれを理解するためです。人々は苦情を挙げ、神はモーセとアロンに、もう十分だ、そこをのきなさいと述べました。彼らはどうしたでしょうか。彼らは神の心、民を滅ぼさないと知っていたので、彼らは捧げものを持って立ちました。彼らは、会衆の中でつり香炉を持っていのちと死の間に立ち、罪のあがないを行いました。疫病が始まりました。多くが亡くなりましたが、完全な滅亡前に疫病は止まりました。人々は人の知恵や知識ではなく、神に目覚める必要がありました。 私たちは、神の御心を求めなければなりません。それが主の御心です。「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」(エゼキエル書33:11) 私たちは、この地で主の証人とならなければなりません。大祭司アロンのように、私たちは民の間に立つよう召命されています。彼らの代わりに、つり香炉を持って執り成しをするのです。 エルサレムから、地の果てまで―私たちと共に礼拝して下さい。

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May 2020

心におそれ?

By | 2020-05-31T13:22:43+00:00 May 31st, 2020|

心におそれ? エイタン・シシコフの近刊書、「With All Your Heart--心をつくして」からの抜粋  全世界規模のコロナウイルス危機からの副産物の一つに「恐れ」があります。 最近、イスラエル大統領、リューベン・リヴリンによる熱いスピーチを聴きました。彼はイスラエル国民に向かい、恐れやパニックに陥らず、不安に流されない様にと、熱弁していました。正に今ある危機は、私たちの心が恐怖に流されることだと、彼は言っています。 しかし、この様な行き先不透明な状況の中で、私たちはどの様に心を整えるべきでしょうか?事業や雇用は甚大な被害を受けています。未来への希望は何なのでしょうか?あるイスラエル人ジャーナリストが、この危機が、私たちが過去に面して来た他の脅威に比べ、如何に異なっているかについて言及しています。「イスラエル人は...、自分が恐れているということを認めたがりませんが、私は恐れています。」(デイビッド・ブリン、JPost、2020年3月16日) [恐れについて議題ですので、我々が奉じるよう命じられた、健全な「おそれ」があることについても挿入しておきたいと思います。それが主を畏れることです。神の力と権威が怖るべきものであることは知られたことであり、それゆえ私たちは罪と悪意と反抗心の結果を、道理ゆえに畏れるのです。究極の威厳を持った方に目見えるとき、私たちは打ち震え、礼拝の形を取った敬意となるのです。] 間違った種類の恐れこそは、私たちが取り扱うべきものです。それは私たちをして、精神的にも感情的にも、萎えさせます。またそれは、私たちを立ち上がらせ、その元を探り、それを乗り越えるための信仰と愛を求め、手にするよう拍車をかけることもできます。その様な間違った恐れが、私たちの心に忍び込んで来、しかもそれは致命的なものであるとき、どの様に扱えば良いのでしょうか? 平和の君があなたと共におられることを覚える 嵐が来て、彼らを皆沈めようとしました。小舟は大風による波を何度もかぶり、弟子たちを乗せた小舟は助かる見込みは少ししかありませんでした。イェシュアはその間、妨げられることなく、ずっと寝ていました。彼らが生き残りの望みをかけ、揺すって起こしました。 「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」(マルコ4:39-40)。 彼らの置かれた状況の中にイェシュアがおられたことで、全てが変わりました。神さまが「決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と保証しておられる事を覚えていてください。 完全な愛で、恐れに対処する 使徒ヨハネは、煮立った油の刑は生き長らえましたが、パトモス島に独り投獄されます。それでも、彼は神さまの愛の最も偉大な啓示を受け取ります。ヨハネはこう言っています、 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します...私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(第1ヨハネ4:18-19)。 恐れに襲われたとき、それは私たちが救い主なる牧者の腕の中に駆け込むべき時なのです。 患難の中にあって、見上げる! 終末の時代に起こるべき事、つまり聖書に示されている主の再臨のしるしは、もう始まっています。 [...]

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王という疑問

By | 2020-05-24T14:34:07+00:00 May 24th, 2020|

王という疑問 イエシュアが園で捕らえられた時、シモン・ペテロは大祭司のしもべの耳を切り落としました。ではここで、聖書の小クイズです。しもべの名前は何でしょう。その通り。「マルカス」です。次の疑問が沸きます。その名前の意味は何でしょう。 福音書はヘブライ語を母国語とする人がギリシャ語で書いたものです。「マルカス」という名には、ギリシャ語では何の意味もありません。その意味は「メレク」e、ヘブライ語で「מ-ל-כ」その意味は「王」です。 驚いたのは、ヨハネは次の2章で、王としてのイエシュアを語るシンボルとしてのヒントとして、これを書いたのです。ヨハネ18と19章では、他では見られない、イエシュアの王としての役割についての最も深遠な霊的な説明があります。 その説明は5つあります。 ピラトがイエシュアを尋問する 兵士が主をあざける 群衆が拒絶する声を上げる 大祭司がカイザルに忠誠を誓う 十字架の上に掲げられた標示 その説明には疑問で始まっています。 ヨハネ18:33–「そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」 「はい」や「いいえ」と答える代わりに、イエシュアはピラトに、何について質問をしたのかと問いています。イエシュアがピラトに質問した理由は、その質問には二つの部分があります。 あなたは、カイザルに反抗するための政治的な人物なのか。答えは「いいえ」 あなたは別の種類の王なのか。答えは「はい」 それゆえ、私たちはまた、この問題の二つの半分について明確にしなければなりません。私たちは軍による反乱を主導するのではありません。しかし、神の権威を代表する油注がれた者、王であるメシアを宣言するのです。 イエシュアはピラトに、自分は確かに王であると伝えます。主の御国は天からのものであると(18:36)。それには天的な権威があり、この世界の政府を超えるものです(19:11)。主の御国は霊的な真理に基づくものです(18:37)。イエシュアが再臨される時、最終的に、この御国の天的権威と霊的な真理はこの世界の全ての政府に取って代わるのです。 ピラトとの討論の後、兵士らはイエシュアに暴行を加えました。 ヨハネ19:2-3–「また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。」 この奇妙なイエシュアへのあざけりは、実際には真理の鏡像なのです。それはまるで、逆さまの演劇の演出のようです。ある日、この世界の全ての兵士らと、政治、経済、軍事の権力を握る人全てがイエシュアの前に跪いて、主を彼らの王であり主であると認めるのです。 [...]

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コロナ、慰め、そして憐れみ

By | 2020-05-09T16:10:45+00:00 May 9th, 2020|

コロナ、慰め、そして憐れみ リバイブ・イスラエルのフェイスブック上ライブからのメッセージ 2020年5月6日 アシェル・イントレーター 私は今、世界で何が起こっているのかを考えていました。多くの国がこのコロナ禍に苦しんでいます。これは単に医療の問題ではありません。これはまた経済問題なのです。これは人々が心配し、ストレスを感じているものです。彼らは病気になるのが怖い上、お金を失う事も怖いのです。そして、彼らは考え始めます。「私は死ぬかもしれない。または、社会全体の構造が倒れてしまうかもしれない。」 皆がプレッシャーを感じ、困難を覚えています。私はどう思うだろうか。私は皆が感じる事を全て感じていますが、違いは、私たちには内に信仰と力を帯びています。私たちはそれに対処するための聖霊からの励ましがあります。 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(第二コリント1:4) これは、人に近づいて背中をたたいて「気分が晴れるといいですね。」と言うような慰めでじゃありません。これは、聖霊が私たちの内におり、私たちの魂と共にこの問題に対処するのです。 私たちはこれを、人々を慰め、励まし、力づけ、彼らがいる状況の中でその人を立て上げるすばらしい機会として見なければなりません。 これは憐れみ–他者か感じる事を感じ、それについて行う事です。今年の過越の祭の季節に、エジプトに対する神の最初の行為が、最初は状況がより悪化するように見えた事を思い出しましょう。モーセは神の元へ行って言いました。「何が起こっているのでしょうか。あなたは人々を救うのだと思っていましたが、今や全てが悪化しています。ファラオは私たちのワラを取り去り、私たちは走り回ってワラを集めなければならないのです。」 そして神の答えはこうでした。「今、あなたは私の力を見るだろう。」 そして、確かにこれは危険な状況でした。しかし、それはまたの機会にして、神の愛についてさらに見て行きましょう。 出エジプト記の少し戻って見てみましょう。私たちは、ある人物が慰めを与えています。それは誰でしょうか。それはファラオの娘でした。何というヒロインでしょうか。 「それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです」と言った。」(出エジプト記2:6) これがエジプトの王女だったのです!彼女の父は最近、すべてのヘブライ人の男の子を殺すように命じました。彼はすでにヘブライ人らに圧制を布き、彼らの神を拒絶し、彼らに信教の自由を与えませんでした! しかし、この若い女性の憐れみは魔術、政治力、軍事力、帝国の霊的な堕落-それはあまりの悪いもので、その閣僚らは頭にヘビを冠していたほどです―よりも大いなるものでした。 王女は純粋に赤子のモーセに憐れみを抱いていました。彼女はこう思ったかもしれません。「この子はヘブライ人の赤ちゃんだと知っているけど、私の心は世界の中にある全ての悪よりも大きい。例えそれが私の父からのものであったとしても。」 何と言う驚く事でしょうか。出エジプト記について考える時、どれほどファラオが悪であろうと、どれほど彼の娘がすばらしいのかを考えます。実際、エジプトでは二つの事実がありました。悪は裁きに向かっていますが、エジプト人の核となる人が何らかの憐れみを持ち始め、イスラエルの民と行動を共にする者も現れます。彼らは、エジプトから出てきた「様々な人々の集団」となりました。 それは、この若い女性から始まりました。憐れみという単純な思いで、彼女はこの赤子を水から救い上げました。これは、神が決められた世界の救いの器であり、彼女は彼を救ったのです!彼らは、彼をモーセ(モシェー)と名付けました。ヘブライ語では、誰かを引き出すという意味です。サムエル記第2と詩篇18章を注意深く見ますと、実際に神がイエシュアを地獄から引き出している預言なのです。何と驚くべきことでしょうか。憐れみを持ったこの女性からすべてが始まったのです。これこそ、出エジプト記の中で、玉が転がり始めた事なのです。 これこそ、一人の小さな憐れみが出来る事なのです。私たちは憐れみを持って活動する準備が必要なのです。 憐れみに突き動かされて [...]

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イスラエル戦没者記念日*における個人的な見方

By | 2020-05-04T12:45:55+00:00 May 4th, 2020|

イスラエル戦没者記念日*における個人的な見方 戦没者記念日は、様々な感情を湧出させ、特に失われた人々を偲ぶ思いを生じさせます。個人的に私自身にも、イスラエルを守るため命を落とした幼馴染みや知り合いがいます。様々な表情、話し方の変化などにより、突然もう会えないそれらの若者たちのことを思い出しました。 これらの愛する人々は私たちの間から取り去られたのです。この小さな国は、現代における再生の時から、約23, 800もの戦死者を出してきました。それに加えること約5千名もの人がテロや敵意に関わる状況下で亡くなっています。これらからの本当の意味での癒しと解放は、私たちの主以外にないのです。これらの家族はそれぞれ、チャレンジや精神力を持っています。 実に、深い悲しみを経験した後においても、生命を選び取っていくことは、崇高で、無私無欲なことなのです。 遺された家族にとって、愛する者が居ないことを感じない日はありません。彼らにとっては、大事であれ小事であれ、楽しいときも、辛いときも、毎日が記念日なのです。 私は、彼ら遺族の前にたたずみ、彼らがいかに、敬愛すべき方法で痛みに耐え、栄光により嘆きを乗り越えているかを見ました。 これら全ての遺された者たちの、より広い意味の「ファミリー」には、都市に住んでいる人もいれば、田舎に住んでいる人もいます。また、西から来た人もいれば、東からの人もおり、多種多様な政治的見解を持った人がいます。世俗派も宗教的な人も、ユダヤ人もアラブ人も、キリスト教、イスラム教も、ベドウィン族もドゥルーズ派、チェルケス人も含まれます。 イスラエルが独立国として建国してから70年経ち、私たちが社会・国家として、相違性により分裂することなく、これら多様なメンバーを包括的に受け入れることが出来る程強力であると言うことが出来れば良いのですが。しかし、道のりはまだまだ長く、主の介入無しには不可能です。 イスラエル社会があらゆる問題により分裂してしまう中で、いかに簡単に遺族の「ファミリー」となってしまうかということは、衝撃的なほどです。 建国から今日に至るまで、我々は本当に大きな代償を払い続けています-- 徴兵制による若い兵士たち、予備役の壮年たち、警察官たちで職務中に突然その命が絶たれた人々がいます。戦没者記念日は、彼らやその家族たちとともに立つ機会なのです。 今迄に手に入れた成果と、イスラエルが乗り越えて来た巨大な課題とともに、私たちは大いなる相違性や意見の違いに関わらず、全てを包括できる社会を、ここに築き上げる必要があります。この国が、私たちが払った代価に相応しい、国々にとって義の光となることが必要なのです。以下の預言的ビジョンが成就する日が、やがて来ることを望んでいます: 「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(イザヤ2:4)。 毎年、私たちは式典に参加します。戦死者やその家族たちのドキュメンタリーを見たり、軍の墓地を訪れ、個人的な、または国を挙げての42時間に渡る追悼に参加します。 追悼のひと時、頭を垂れる時、私は遺された家族たちのことを憶えます。存命中に入隊し苦しんだ友人たちのことを思います。また、もうすぐイスラエル国軍に召集される自分の子供たちのことを、そして私がどの様に彼らに、神さまの御言葉に照らして、自分の国を愛するかについて訓練しようとして来たかを、思います。 *(今年の戦没者記念日は4月28日になります。)

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