September 2020

ラッパについての啓示 – パート2

By |2020-09-22T11:37:18+00:00September 22nd, 2020|

ラッパについての啓示 – パート2 [パート1では、聖書的なラッパの祭りとその奥義について、黙示録にて--ショファル/ラッパのの意味については、律法書から最後の啓示まで--学びました。] 7つ目のラッパ 黙示録10:7: אוּלָם בִּימֵי קוֹל הַמַּלְאָךְ הַשְּׁבִיעִי, בְּעָמְדוֹ לִתְקֹעַ בַּשּׁוֹפָר, גַּם יֻשְׁלַם רָז הָאֱלֹהִים, כְּמוֹ שֶׁבִּשֵּׂר [...]

ラッパについての啓示パート1(2パート有)

By |2020-09-13T12:52:44+00:00September 13th, 2020|

ラッパについての啓示パート1(2パート有) トーラー(モーセの律法)は定められた例祭を第七の月の第一日目に行うよう呼びかけている。これは、ヘブライ語で、「יום תרועה、ヨム・テウラー、吹き鳴らす日(または、ラッパの祭り)」と呼ばれています。ラッパを吹き鳴らす(ヘブライ語でショーファー)事はテウラーの音と共に: レビ記23:24: דַּבֵּר אֶל-בְּנֵי יִשְׂרָאֵל לֵאמֹר בַּחֹדֶשׁ הַשְּׁבִיעִי בְּאֶחָד לַחֹדֶשׁ יִהְיֶה לָכֶם שַׁבָּתוֹן זִכְרוֹן תְּרוּעָה מִקְרָא-קֹדֶשׁ 「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。」 しかしながら、この日は一般的には「ロシュ・ハシャナー、ראשהש [...]

黒人が殺されている

By |2020-09-09T14:16:46+00:00September 9th, 2020|

黒人が殺されている 現代社会が直面している大きな悲劇のひとつは、多くの黒人の人たちが殺害されている事実です。アフリカ大陸では、人口がより多いため、当然数字はさらに多くなりますが、米国におけるアフリカ系アメリカ人の殺害件数を見ると社会的悲劇と人種対立が目につきます。 このトピックは2つの部分から成っています。 警察による殺害 刑事事件としての殺人 では、幾つか統計を見てみましょう。 (私は統計学が専門ではなく、完全にはこれらの統計について、検証することはできません。これらは、ウィキペディアやニューヨークタイムズ、ワシントンタイムズ、アルジャジーラ、FBIのサイト などを読み、引用しています。) 2013年から2019年の5年間では、4984人が米国で警察により殺害されており、年間約千人で比較的一定しています。以下が人種による内訳です: 2,528人 - 白人 1,318人 - 黒人 920人 - ヒスパニック 218人 - その他 [...]

ユダヤ人の王

By |2020-09-01T15:00:19+00:00September 1st, 2020|

ユダヤ人の王 イエシュア(イエス)が十字架に付けられた時、ピラトは主の頭上にしるしを掲げさせました。それには「ユダヤ人の王」(ヨハネ19:19;マタイ27:37)と書かれていました。このしるしは3つの言語(ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語)で書かれていたため、世界の全ての人が理解しました。私は、この記述は、神によってなされたものだと(ヨハネ19:22)、そして、神のご計画の重要な側面を表すものだと信じます。それは、「十字架の第二の目的」とも言えるものです。 第一の目的は、人類に救いをもたらす事です。これは、イエシュアが十字架について語られた事に見られます。「父よ、彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)、「「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」」(マタイ27:46;詩篇22:1)、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46、詩篇31:5)。これらの発言は、許しと恵みを受け取るための神による招待なのです。 その一方で、十字架に掲げられたしるしは、神による、主の権威と御国の宣言なのです。第一の目的は許しをもたらすもので、第二の目的は主に従う事を要求するものです。第一は罪を取り扱い、第二は反抗を取り扱います。それゆえ、十字架に掲げられたしるしは詩篇2:2、6、「地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者(メシア)とに逆らう。」「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」を成就させたのです。 「王」という言葉の意味は、政府の最高権威者を表します。神は主がご自身の御国をこの地に建てられると、そして、この人物(イエシュア)がその政府の最高指導者であると宣言されています。この政府は全地に及びその首都はエルサレムになるのです。それは、イエシュアを皇帝に抱く世界帝国になるでしょう。 古代の王はまた判事長でもありました。判事の役割は誰が有罪で誰が無罪かを決めるもので、悪者を罰し義人に報いる事です。王はまた、敵を滅ぼす軍隊の総司令官でした。(この場合、イスラエルの敵は–ゼカリヤ書12:9、14:3)。十字架上のしるしは世界にイエシュアが主の再臨時に全ての役割を成就させると知らせるものなのです。 あなた方は、神が、誰が主権を持つ支配者であるかを宣言する方法としては、奇妙だと思われるかもしれません。しかし、これは一つの点にすぎません。神の権威の種類はこの世の権威とはまったく違うものです。神の権威は愛に満ち溢れ、自己犠牲的であり、他者に仕えるものです。世界の権威のシステムは、政治、保身、他者をコントロールするものです。十字架によって、神は愛を力よりも高い価値があるものとし、誰が支配する権威を得るのかを定義されました。 しかし、力は来ます。神は主の権威に従う者に力を与えられます。その法則はイエシュアに当てはまり、また私たちにも当てはまります。十字架は、イエシュアにとって主が付いてくるか、服従するかどうかのテストでした。十字架を通して、主は権威がある者として相応しいかどうかお示しになられました。それは、世界の支配者として資格があるかどうかの倫理的な性質のテストでした。主は合格したのです。 主の死と復活は、全ての人々に、神が王でありメシアとして選ばれた人であるという事を証明しました。(使徒10:42–「イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。」)神は、十字架に掲げられた文書によってイエシュアが王であると宣言されました。そして、それは主を死者の中から復活させる事によって確認しました。十字架はテストであり、復活は、証明でした。 それゆえ、十字架への道はただ私たちの罪の贖いだけではなく、私たちが従うべき例なのです。それは、私たちが服従し、付いていく、そしてまた、イエシュアと共に権威を得るためのパターンです。これがピリピ2:5、8-9の意味なのです。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」 イエシュアの十字架上の死は、ただ私たちの負債を帳消しにするだけではなく、私たちの運命へと導くものです。それはマイナスを取り払ってゼロにするのではなく、加算してプラスにするものなのです。私たちが十字架によって罪が許されると信じる時、私たちの罪は許されます。私たちが自分の十字架を取り上げて主に従う時、私たちは指導者や権威ある者として訓練を受けるのです。 主と共に支配し君臨するのは、私たちの目的です。(誰かが、「王冠をかぶる前に、十字架を背負わなければならない。」と言いました。)そして、主の目的は何でしょうか。明らかに、書かれているように、「ユダヤ人の王」なのです。ユダヤ人の王となる事がイエシュアの目的であり望みなのです。 記:どれほど多くの問題にイスラエルの首相が直面するのを見た後、私は、一体誰がその職務を欲しがるのだろうか、理解に苦しみます。実際、イエシュアはいつも、主を王としようとすると主はそこから立ち去ります。(ヨハネ6:15)しかしながら、千年王国の時、主はイスラエルの首相と一致する諸国の指導者としての役割を担います。 ヨハネ18:37 「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」 イエシュアご自身にも目的、生活の中での召命があります。ユダヤ人の王となるべき召命です。それが主の召命ならば、私は手を尽くして主がその召命を達成するために支援したいと思います。結局のところ、主は私のいのちを救って下さいました。私が主のためにする、それが最低限の事なのです。 それゆえに、私たちは救いの福音だけでなく、御国の福音も宣言するのです。(マタイ24:14)主の初臨の時、主は救い主となられた王でした。再臨の時、主は王となった救い主になります。主は王の王であり、ユダヤ人の王なのです。

August 2020

謙虚さと霊的闘い

By |2020-08-23T14:36:26+00:00August 23rd, 2020|

謙虚さと霊的闘い 霊的闘いにおける第一の原則は、謙虚さです。霊的な闘いの中にいることに気付いたならば、まず自分自身が謙虚になる必要があります。多くの人は、霊的闘いと言えば、力強い祈りや、悪魔に対する恫喝を連想します。多くの点でそれは正しいのですが、謙虚さと従順さについて分かっていなければ、霊的闘いは大敗に終わってしまいます。 ヤコブ4:6-7、10 神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。 これらの聖句の中で、従順さと謙虚さは、悪魔に立ち向かうために必要な要素、つまり必須条件であることに注目してください。 悪魔に立ち向かうことは、同時に自分自身が謙虚になることに掛かっているのです。 なぜなら悪魔の性格そのものが、傲慢さと緊密に結ばれているからです。 傲慢は悪魔のモチベーションであるため、彼はその働きのスペシャリストでもあるのです。 あなたがその傲慢さを持ったとき、悪魔の策略にも扉を開いてしまうのです。 あなたの傲慢さは、悪魔にとって格好の攻撃目標となるのです。 悪魔は、エデンの園にいるアダムとイブのもとに来て、霊的傲慢さ(「あなたは神のようになる」-創世記3:5)と知的傲慢さ(「善悪を知る」-創世記3:5)をもって彼らにアピールしました。 今日でも知的傲慢さと霊的傲慢さは、悪霊の活動の足掛かりです。 私たちが謙虚になり、神に従順となって、この2つの傲慢さを拒否するとき、悪魔の活動をシャットアウトします。 その悪魔から来た傲慢さは、反抗心や分派に繋がる可能性があります。 聖書によると、サタンが神を攻撃しようと決めたとき、彼の傲慢さが、反抗心に油を注いだのです。 エゼキエル28:17  あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。 ここの「高ぶり」という言葉は「ガヴァハ/גבה」で、傲慢さの語根(原型)である「ガアヴァ/גאוה」と似ています。傲慢さは、私たちの上に権威を持つ者に対し、悪い態度を取ることにつながり、最終的には分裂を引き起こす可能性があります。 教会における分派の大部分は傲慢によるものです。 当事者の一方が謙虚になれば、分派は最小限に抑えることができます。 イェシュアは、どんな国でも内輪もめすれば滅びることを、私たちに教えています(ルカ11章)。 悪魔は神の御国を滅ぼそうとしていますが、分派と反抗を助長することにより、これを行います。 分派と反抗の源泉は、傲慢/プライドにあります。 悪魔の種子にとって、プライドは肥えた土地です。私たちが謙虚になるとき、悪魔にそのような土地を提供しません。 時に傲慢さは、個人的な不安や、拒絶される恐れを隠す手段になっています。人は不安を感じるとき、自分の足りなさを補うため、「フグ」のように体を膨らませることがあります。本来、謙虚になれる人というのは、心理的に十分満たされていることと、内面的な強さを映し出しているのです。 傲慢が不安を隠すことの症状の一つは、人によっては、「offended/気分を害される」という傾向です(あるいは「私は傷つきやすい」と言って、傲慢さや不安を隠そうとするケースもあります)。ヘブライ語でこの「offended」という語に相当するものは、見つけ難いです。表現方法の1つとしては、「wounded pride/傷ついたプライド」や「honor insulted/侮辱された名誉」となるでしょうか。 傲慢さの低い人は簡単には、気分を害されたり、傷つきません。 時には、自分が正しいと確信している人こそが、傲慢さを持ち、問題の原因となっています。 気分を害した人、最も知的な人、最も油注がれた人、分派を引き起こしている人が、悪魔に働く機会を与えている人となっているのかも知れません。 聖霊さまの導きにより、自分の心の中を探り、正すべき、悔い改めるべき部分は、速やかに調整しましょう。

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困難な時期の新しい態度

By |2020-08-20T15:31:34+00:00August 20th, 2020|

困難な時期の新しい態度 私たちは、新しく困難な時期に入っているように思えます。この試練と艱難に対応するために、私たちはイエシュアの信者としてより理解を深める必要があるように思えます。 究極的に、私たちが物質的祝福の中で生きるのは神のご意思です。聖書の終わりに、永遠に痛みや呪い、涙のない世界が描かれています。(黙示録21:4)。 しかしながらこの時期、慰めの時期と、困難な時期に主に目を向ける時であっても、人々は神から離れる傾向があります。信じない人々は、全てがうまくいっている時は神についてあまり興味を持ちませんが、状況が困難な時には心を開く傾向にあります。 献身した信者である私たちでさえ、うまくいっている時は、主への熱心さが薄れ、よりこの世の事柄の事に占有されてしまいます。困難に対処する時、私たちは謙虚さ、純粋さ、祈りそして一致を学ぼうとします。 外側でより困難な事がある時、霊的な事柄により人々は心が動き、困難な時期が祝福となる事があります。困難な時期は、その一部は神からの裁きです。この裁きは主の恵みであり、未信者、信者双方を主に近づけさせるものです。 神は私たちが苦しむ事を望みません。しかし、困難な時期は大いなる霊的促進をもたらす事と見ています。私たちは物質的な慰めのみで祝福を測ろうとはしません。むしろ、霊的な純粋さで祝福を測ります。 それゆえ、困難な時期に私たちは積極的に祝福と神の目的を求めます。私たちは試練と艱難の最中、神の主権と義なる裁きを理解しなければなりません。 終わりの時、神の人々は、神の裁きは義であるという事に焦点を当てて神を賛美し始めます。それが、私たちのほとんどの態度が大きく変化する事を表しています。 黙示録11:17-18–「言った。「万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」 黙示録15:3–「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。」 黙示録16:7–「また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」」 黙示録19:2-「神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」 困難が来た時、それには神の側面と悪の側面があります。同時に2つの正反対の真実が生じます。困難な時期の最中、私たちは、この困難の一部は神からのものだと理解し従う必要があります。そして、一部は神からではないもので、それには抵抗しなければならない事を理解する必要があります。 ヤコブ4:7–「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(第一ペテロ5:6-9も参照) 経済、政治、公衆衛生で困難がある時、私たちは、自身をへりくだらせる恵みによる神による裁きである事を理解しなければなりません。そうする事によって、神が私たちを癒やし、私たちの国を回復されるのです。 歴代誌第27:13-14–「もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」 13節に、あたかも主ご自身が困難をもたらした原因であるかのように、主が全ての責任を負うと述べられているのに注目して下さい。困難は罪に対する神の裁きと考えられています。(人々が、困難を自身の罪による神からの裁きと認めるのは簡単な事ではありません。)裁きの目的は私たちのためであり、私たちが悔い改め、主に立ち戻るためです。 私たちが本当に悔い改める時、神は全てを癒やすと約束しています。経済状況の解決法は経済ではありません。解決方法は、神を知らない大多数の人々にはありません。解決方法は信仰共同体の中にあります。もし私たちが悔い改め神を求めるならば、主は外面的問題を解決されます。 同様に、政治的な状況を解決するものは、政治にはなく祈りにあります。健康上の問題は保健省にはありません。主に立ち返る事にあります。神の目的は罪人を救う事と聖徒を潔める事です。それが起こる時、主は簡単に物質的な祝福を与えて下さいます。 [...]

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中東のための戦略的祈り

By |2020-08-16T15:28:52+00:00August 16th, 2020|

中東のための戦略的祈り 神のご計画と目的に沿って、私たちは諸国のために祈ります。そうするには、私たちは私たちが生きているこの時代の啓示的理解が必要となります。デレック・プリンス師はかつてこれを「祈りと断食を通して歴史を形作る」と呼びました。これについて、預言者ダニエルという素晴らしい前例があります。 ダニエル9:1-「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、」 ダニエルは、聖書の預言という文脈の中で政治的な状況を見ました。さらに、彼はまた政治的な状況の中で聖書の預言を見ました。この状況の中で、彼はどのように預言が政治に影響するか、またその反対も理解していました。 ダニエル9:2-「すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であること