October 2019

聖なるか、それとも聖を行うか

By | 2019-10-11T15:21:30+00:00 October 11th, 2019|

愛と聖なる結婚 グレタ・マヴロ 主が世界の基礎を創られる前から私たちを選んだように、私たちも聖であるべきで、愛の主の前に聖で非難されることないようにあるべきです。(エペソ1:4) 聖さは、それが愛に根ざしていない限り、真の神聖ではありません。 それ以外の場合は、表面的で厳しく、宗教的になります。それは高く、達成不可能になります。私が聖であるように聖であれと命令されています。しかしそれはまた、私たちの最愛の主からの、一つになるための招待状です。真の愛は、最愛の人のようになりたいと願っています。主よ、あなたが聖なる方なので、私は聖なる者にとなりたいのです。私はあなたを愛しているので、私の神聖さは、あなたを(私の中で)表現する者になりたいのです。 聖さのない愛は肉欲的でこの世的です。愛のない聖さは高尚で表面的です。愛と聖性は統合されなければなりません。それは神において私たちを隔てる心であり、私たちが身に着けている表面的なものでもなく、または、私たちが従う規則(正気ではなく、心からでもなく)でもないものに分かれています。 聖さは目標を持っていなければなりません。そうでなければ、それは単に表面的な宗教、情熱と力の流れを妨げる、行う事、行わない事のリストになってしまいます。聖さの目標は神との結びつきです。本物の聖さは、神との結びつけに備える純粋な情熱です。 それは花婿との純粋な一致のための花嫁の情熱です。 聖さは愛によって点火され、愛は聖さによって浄化され、完成されます。 聖なるものから愛を分ける事、またその反対も、わたしたちの結婚、家族、教会にとって危険です。聖さがなければ、キリスト教の結婚で表現される愛は、この世と同じようになります。イェシュアが結婚の床から除去されると、汚れてしまいます。キリスト教の結婚は、情熱と純粋さの両方において、キリストと教会の一体を反映したものでなければなりません。それは、すべてのキリスト教の結婚は、キリストが存在しない世の結婚とは全く異なります。主は結婚の床を含む結婚のあらゆる部分に存在しなければなりません。 聖さと愛を分けることが、教会の中での離別と離婚の原因となっています。結婚(床)の中に愛のない聖さは、情熱が点火する妨げとなります。聖さのない愛は、純粋さの流れを妨げます。いずれにせよ、結合は表面的で機械的行為に矮小化されます。 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。: エペソ5:25-29 夫は妻を愛するとき、彼は自分自身を愛しています。彼は、彼女が彼自身の肉であるので、彼女を養い大事にします。このようにして、イェシュアは、たとえ主がご自身を愛しているとしても、私たちである主の花嫁と教会を愛しています。 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。エペソ5:32 イェシュアは、私たちは聖なる事をするのではなく、聖なる者であれと言っています。聖であることは、主と結びついている事と関係があります。私たちはつながっているので、私たちは聖なる者なのです。「聖なる行い」は、人によって作られた規則に従うことに懸命になることと関係があります。それは、自分が聖なるものであり、主との一体性に依存するものではないのです。もし、主(キリスト)が神との結びつきを通して聖なる者となるように、もし私たちも聖なるようになるならば、私たちは聖なる事をするでしょう。