December 2019

成熟-「有毒な民族主義」から「チームを越えて」

By | 2019-12-08T15:00:47+00:00 December 8th, 2019|

成熟-「有毒な民族主義」から「チームを越えて」 「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」(1コリント13:11) 小さな子供は、実際にどれほど小さいかという視点を持たずに、自分の世界の中心だと考えます。彼ら自身の意志と願いが最も重要です。同じ部屋にいる2人の幼児は、お互いに関わらず、自分のゲームをプレイし、空腹時に食べ物を要求し、食べた後それを片付けず汚れたままです。彼らは物事を行う自分の方法を持っており、その方法が唯一の方法です。非常に小さなことに、彼らは注意を引き、それによって彼らは泣いたり笑ったり、嫉妬したり悲しんだりします。彼らはその瞬間を感謝するだけで、より大きな視点で感謝しません。大人の目には、これは「子供っぽさ」であり、「子供らしさ」または「無垢」とは違います。 大人の「子供っぽさ」の現れは「有毒な民族主義」である―私の民族、私のグループ、私の家族は、正しいか間違っているかにかかわらず、代償どうであれ成功しなければなりません。それは、民族が神の目に重要ではないと言うのではなく―聖書は神が世界の民族と関わっていることを明確に示しています。-「有毒な民族主義」は健全な民族のアイデンティティの変形です。 パウロがこの箇所で述べた後に「成熟」について話すのは偶然ではありません。「預言」、「異言」、「知識」はすべて過ぎ去る(13:8)–これらは部分的かつ一時的です。私たちの世界は言葉や意見であふれており、意見を持つ者は常に正しいです―少なくとも私たちの目には。2015年のワシントンポストの記事によると、インターネット全体を印刷するには305,500,000,000ページかかります-大満足な読書量ですね! 意見は預言に影響を与えます。私たちは人間なので、私たちは、神への完全に開いたチャンネルを持っているのではなく、「部分的に知り、預言する」だけです(13:9)。同時に、わたしたちは預言を軽視しないように指示されます(1テサロニケ5:20)。預言は大切だが、最も重要なことではありません。 パウロは成熟、成人期、大人である事を、より永続的なものと結びつけています。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(13節) 世界は、信仰と希望に満ちた、本当に愛する「父たち」を必要としています。父たちは、自分の民族の必要性を超えて、自分のニーズを超えて、より大きな神の御国の絵図を見るのです。彼らの会話は、自分自身、自分の意見、自分のグループ、自分の利益、自分の栄光に絶えず戻る事はありません。彼らは他人に焦点を当てるために、自分自身の正当な焦点を犠牲にさえします―他の人が要求したり、強引であっても。彼らは未熟な人々や罪の中にある人々でも受け入れ、彼らがコントロールする必要はありません。 政治の世界では、そのような人々は「政治家」と呼ばれます―自らの政党と再選を超えて見る事の出来る政治家です。メシアの御身体では、これらの人々は正真正銘の「使徒ら」であり-コングリゲーションや教会の設立において、地元を超えて責任を持ち、多くの場合、自分自身が大きな代償を払って、様々な種類のチームを指導します。家族の中で、そのような人々はもちろん「父親」であり―虐待的でもなく、不在でもなく、物理的にも感情的にも存在します。そのような人は「子供じみたやり方を捨て」、「男になる」と言います。 終わりの時の神の第一の目標は、あらゆる分野での最後の世代の父親を育て、暗闇の高まりに立ち向かい、彼らの保護下にいる人々を守ることです。メシアの御身体は、彼らのために執り成しをし、認識し、支持する必要があります。彼らの存在がなければ、暗闇の淵に滑り落ちてしまいます。これがあなたならば、最も低い場所から今こそ立ち上がる時なのです! 「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」マラキ4:5-6

ロバに乗ってエルサレム入城

By | 2019-12-01T14:18:03+00:00 December 1st, 2019|

ロバに乗ってエルサレム入城 イエス(イェシュア)は、異なった種類の王国を率いる異なった種類の王です。主の御国の一部として、私たちは異なった種類の国民となるべく召されているのです。 マタイ21章では、イエスさまは謙遜と権威を同時に示されました。彼は、仔ロバと共にいる母ロバを連れてくるよう、弟子たちに言いました。「もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」(マタイ21:3)、 なぜイエスさまは馬にではなく、ロバに乗ることを選ばれたのでしょうか?馬であれば、印象がより強かったでしょう。イエスは、戦車付きの軍馬に乗った、支配者なる王としてとして来られたのではありませんでした。永遠を通じて最も偉大な指導者は、象徴の重要性を理解しておられました。ロバは謙遜と平和の象徴だったのです。 主の方法はいつも最善 この世の人とは違ってあるように、私たちは召されています。イジメる側に立つのではなく、弱い者のために立ち。ウソで覆うのではなく、真理を語り。不平を言うよりは、感謝の心を持ち。面倒くさがるのではなく、心から仕え。辞めてしまうのではなく、堪え忍ぶのです。私たちが人とは違って行動するよう、王なるイエスさまが召しておられます! イエスさまが、ロバに乗りエルサレム入城されたとき、その何百年も前に語られた預言が成就しました: シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。(ゼカリヤ9:9-10) なんと素晴らしい 「しもべなる指導者」のお手本なのでしょうか?主こそは自己犠牲の愛により、その民の心に語り掛ける王なのです! 謙遜になり、誰に権威があるか知りなさい 後日、神殿の庭を強欲と不正のために悪用していた人々を追い出すため、イエスさまは権威を用いました。謙遜は弱さとは違うということを、勘違いしないでください。また、従順さとは制御された力なのです。ご自身の権威を知りつつ、イエスさまはこの制御された力を行使されたのです。彼は優柔不断だったのではなく、義なる行為を行ったのです。 イエスさまは、正当な権利としてお怒りになりました。つまり神殿を礼拝の場所として、回復しようとされたのです。イザヤ56:7から引用し、マルコ11:17で、「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」と仰いました。 イエスさまは神殿のあるべき姿に回復するため、断固とした行動を起こしました。彼は謙遜の人であり、同時に権威を持っておられました。私たちは主の足跡に従う様に召されているのです。

November 2019

完全な円:時間と地理における神の救いの計画

By | 2019-11-23T18:08:32+00:00 November 23rd, 2019|

完全な円:時間と地理における神の救いの計画 イザヤ59章は、時間と地理を通じて神の救済計画を包括しています。 この章は、イスラエルの多くの罪を詳述する預言から始まります。(1~15a節)その後、15b~16a節は、神の対応に移る前に、神の民に関する神の悲しみを示しています-両方の「救済」(十字架の事)、そして神の完全な戦士として鎧で武装した神の御子を通しての裁き(16b~18節)について述べられています。18節は、主がイスラエルだけでなく、世界の反逆を裁くことを示しています。その後、私たちは特別な19節に至ります: そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。 み言葉がまず西を指し、次に東を指していることに注意してください。堕落の罪、恥と悲しみの後、アダムとエバは東に住んでいました。しかし、アブラハムは、救世主を求める賢者と同じように、約束に従って西に向かって旅をしました。人々は西で「主を恐れる」ことを始めました。使徒行伝で、パウロは聖霊によって東へ、アジアのローマの州(今日のアジアを意味しない)に行くことを止められたが、マケドニアの男の夢を通じてヨーロッパに、西に呼び出されました。彼は後にローマで生涯を閉じた。紀元4世紀、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、主に西方面の帝国のキリスト教化に重要な役割を果たし、ヨーロッパの大部分でローマ教会の成長への道を開きました。 イザヤの西方の「洪水」は、勢いを作り出すのに時間がかかりました-ヨーロッパのローマ教会は腐敗し、16世紀のプロテスタント改革は、大陸の西と北の隅に信仰のより聖書的な表現をもたらしました。その後、17世紀にヨーロッパでの信仰の自由を実践することができず、清教徒たちはキリスト教が栄えたアメリカに逃げました。そこは、ユダヤ人にとって最大の故郷でした。 すなわち、西では「主への畏れ」が中心的な基盤であり、秩序、規律、正義を社会組織にもたらしてきました。アメリカの信仰が神から離れるにつれて、福音の流れはさらに西に向かって進み、太平洋諸島の美しい海岸に飛び散り、多くの食人族の子らがイェシュアを王として受け入れました(アフリカとラテンアメリカに南下し、ロシアに北上した)。その後、1977年から1997年まで、韓国の教会は世界で最も急速に成長し(そして興味深いことに、まったく同じ年、経済も最も急速に成長した)、人口の3分の1が仏教から主に立ち返りました。 これらの「日の昇る」土地で強調されているのは、常に神の高揚した素晴らしさと威厳でした-「彼らは主の栄光を拝します」 福音が劇的に広がる「洪水」は西方へと続いています。中国は迫害を通じて、今日1億人以上の信者がおり、10万人の宣教師を西に派遣する計画で、人類史上最大の教会へと成長しました。ネパールの教会は1980年代に文字通り一握りから成長し、今日では最大100万人と見積もられています。1980年代後半の共産主義の崩壊に続いて、中央アジア共和国の多くは主に向かいました-福音は仏教、ヒンドゥー教、無神論等の古代からの障壁を打破し、現在はイスラム教世界へと伝わっています。今日、世界で最も急速に成長している教会は、大迫害を経験しているアフガニスタンとイランであり、「オペレーション・ワールド」の統計によると、それぞれ16.7%と19.6%の年間成長を遂げています。「オープンドア・USA」の統計ではイランの信者は800,000としています。 そこで、古代のシルクロードに沿ってエルサレムに戻り、いくつかの障壁はまだありますが、イザヤ59:20に到ります。 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」――主の御告げ―― パウロはローマ11:26b-27でこれらの言葉を引用し、聖霊の流れが地球をぐるっと一周し、完全な円になるとき、それはイスラエルの時が来たことを表します。 「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」ローマ11:25-26a 「こうして」という単語は、原因と結果を示すキーです。異邦人の完全性、世界的な迫害、執り成しの祈り、イスラエルを妬ませる異邦人、終わりの時の世界的な収穫、(「こうして」)「すべてのイスラエル」の完全な悔い改めと贖い主がシオンへの帰還につながるのです。私たちの叫びに応じて主がシオンに戻ります。「バルーフ・ハバー・バシェム・アドナイ。」 ですから、主の破られない契約(21節)によれば、イスラエルと国家の完成、東、西、南、北は、まもなく一緒に「主の御名を恐れる」と「主の栄光を拝する」のです。

地の果てまで

By | 2019-11-12T12:35:53+00:00 November 12th, 2019|

地の果てまで 使徒行伝は、エルサレム、ユダヤ、サマリアと地の果てまでの福音の広がりを記録したものです(使徒1:8)。 1つの地域で始まったものは、30年で小アジアを経由してヨーロッパの主要都市に拡大し、数万人強に増えました。 この拡大は6 段階のパターンで見る事が出来、それぞれの段階はその進捗状況が記されています。 使徒1:1-6:7は教会の誕生とエルサレムでのペテロの説教を伝えます。 進歩報告書:「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」 使徒6:8-9:31は、ユダヤ地方での福音の広がり、ステファンの殉教、ガリラヤとサマリア地方での説教を伝えます。 進捗報告:「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」 使徒9:32-12:24パウロが改宗し、コルネリオとその家族、カイサリアでの異邦人が神の家庭に受け入れられ、福音はアンティオキアに広がります。 進捗報告:「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。」 使徒12:25-16:5は、パウロの宣教旅行を通して小アジアを通って福音が伝えられ、ガラテヤ地方に達します。 進捗報告:「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」 使徒16:6-19:20福音はコリントやエペソのような偉大なヨーロッパの都市に広がります。 進捗報告:「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」 使徒19:21-28:31で福音は当時の世界の中心であったローマに達し、パウロは自由に福音を延べ伝え、投獄中に重要な手紙を書きます。 進捗報告: 「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」 紀元1世紀の福音の進歩は、今日の私たちを励まし、福音がエルサレムに戻り、すべてのイスラエルが救われる中で、この逆の順序を含む同じようなパターンを繰り返えされるという信仰を与えられるのです。

ナチスの歴史がリピート?それとも御国のリバイバル?

By | 2019-11-06T14:52:48+00:00 November 1st, 2019|

ナチスの歴史がリピート?それとも御国のリバイバル? 時に、私たちは周りの環境に慣れ親しみ過ぎて、それに気付かなくなってしまいます。美しさに対して慣れてしまいますが、醜いものにも慣れます。欧米では、既に何世代にも渡り、啓蒙主義を源流とする世界観に影響を受けた人たちが、産まれ、人生を送り、死んで行きました 。その啓蒙主義とは、18世紀に起こった哲学的・知的運動で、「神」を「原因」や「知識」で「置き換える」ものです。今日、我々は人間の「道徳心」を神さま抜きで語る時、「世俗的な人道主義」という用語を用います。この世俗的な世において、私たちの学校、大学、ビジネス、政府で「神」の居場所が殆ど無くなってしまいました。今この世俗的システムは、グローバル化した社会と現代メディアにより、欧米諸国さえも越えて発展しています。 イェシュアの時代には、頑固者のサドカイ派は天国や超自然的なことを信じておらず、実質的に人間中心主義で、「世俗的人道主義」の初期形態であったのです– 結婚と復活についてイェシュアが教えておられるメッセージ、マタイ22:23-33(リビングバイブル版、以下のリンクも同様)をご覧ください。このことは同様に頑固者であったパリサイ派には当てはまらず、彼らは天国を信じていたのです。 イェシュアが来られたことはサドカイ派とパリサイ派の両派に激震をもたらしました。彼の「人の子」としての描写は、この世に住んでいる私たちの関心に訴えかけてくる一方、彼の称号「神の御子」は、私たちに天の御国と超自然性について思い起こさせます。イェシュアは事実、「人の子」(マタイ8:20; 9:6; 11:19その他)であり、また「神の御子」(マタイ27:43; ルカ1:35; ヨハネ1:49-50 その他)の両方であったのです。 妥協しない 第二次世界大戦前のドイツでは、ルーテル教会が国の宗教を支配していたので、ほとんどの人はルーテル派でした。悲劇的なことに、ヒトラーのナチス党はこの教派が、影響や、侵入や、支配を受けやすい事を知りました。妥協せずに、残されたのは、聖書に忠実な「告白教会」でした。 告白教会の牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーは、Ethicsという著書の中で、ルーテル派が「2つの(異なる)領域で思考している」と批判しています。「下層領域、すなわち地上的領域」はビジネス、政治、行政に関連する一方、「上層領域、すなわち天的領域」は、祈り、礼拝、教会出席に関連します。上層領域についてのみ、ルーテル派は関心を持っていて、ナチスが下層領域を好きな様に支配するに任せている – 「それ程、天的思考であるにも関わらず、地上的には全くダメ」だったのです。そのためナチスが、例えば、ユダヤ人の商売を没収したり、ユダヤ人を社会から追い出し、最終的にはガス室に送ったりしていた時に、ルーテル教会はそれに反論する神学的基盤が殆ど無かったのです。 憂慮すべき事に、私たちの現代人道主義世界は、ナチスと似通ったDNAを持っていて、極悪となる可能性を秘めています。聖書的信仰とユダヤ-キリスト教的価値観は端の方に追いやられ、中傷されており、最終的にその支持者、つまりキリスト教会、ユダヤ民族と国家は迫害されるのです。サドカイ派がそうであったように、この世のシステムは、「地上的な領域」に関心があり、「天的な領域」には関心がないのです。 私たちの応答 今日、全世界のメシアの身体は、その多様な表現において、5つの方法で応答する必要があります: 第1に、私たちは同時に両方の領域に立っている事を確認する必要があり、また「この場所・現在」と「永遠」についても配慮すること --「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」--マルコ12:17。私たちは、政治、ビジネス、生命倫理、性別問題、貧困、環境問題に対し、影響を与え、関わって行くべきで、その上で祈り、礼拝し、伝道するのです。 第2に、私たちは端に追いやられたり、黙っているべきではなく、公に討論を行うべきで、そうすることで、やがてサタンの王国が分裂し、転落していきます。パウロは、使徒23:6に記録されているように、エルサレムでサドカイとパリサイ、両派のユダヤ人指導者たちと討論したときに、この事を行いました。彼自身が「死者の復活という望みのことで、さばきを受けているの」だと宣言しました。また使徒24:21で、世俗的ローマ人為政者の前で、この訴えを繰り返したのです。もちろん、パウロは地上的領域も配慮していましたが、サドカイ人とローマ人に天的領域を考慮するよう挑戦し、それらイェシュアに反対する人々を分裂させたのです。 第3に、私たちは他の宗教を奉じる人たちで、例えばその宗教の暴力性や不適切性のため、彼ら自身の信仰に不満を抱いている人々に、伝道する必要があります。例えば、多くのイスラム教は彼らの言う「天的領域」から無宗教的な「地上的領域」に移動し、単に世俗的になっていっています。イェシュアは、彼らにとって第三の、本物の選択肢を提供しています。 [...]

October 2019

文化と民族的発展

By | 2019-10-25T14:43:32+00:00 October 25th, 2019|

文化と民族的発展 イェシュア(イエス)への信仰の最初のコミュニティは、シャブオット(ペンテコステ)の日に始まりました。ガリラヤ出身の「イスラエル人」を中心に120人のユダヤ人信者(使徒1:14)が最初の核でした(使徒1:11、2:7)。 福音書と使徒行伝を注意深く読むと、イェシュアのガリラヤの弟子とユダヤとエルサレム地域の、より宗教的なユダヤ人との間の社会的、民族的緊張間が生じている事が分かります。(マタイ26:733、マルコ14:70、ルカ22:59、ヨハネ7:1、7:52)。 「ガリラヤ人」と「ユダヤ人」の間のその緊張は、今日のメシアニックと正統派ユダヤ人とのの緊張と平行しているのが分かります。 聖霊が注がれたとき、核となるグループはすぐに3千人のより大きなグループに拡大しました(使徒2:41)。これらの人々は、聖なる祝祭日のためにイスラエルの外からエルサレムを訪問していました。「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、」–使徒2:5。これらは、今日私たちが「ディアスポラ(離散)」ユダヤ人と呼ぶものでした。 しかし、他の民族的背景を持つ人々もいました。「ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、」–使徒2:11。(クレタ島はイスラエルに近いヨーロッパの島です。)したがって、グループ全体で以下の人々がいました。 イスラエル」(ガリラヤ人)ユダヤ人 ディアスポラ・ユダヤ人 ユダヤ教改宗者 ヨーロッパ人(クレタ人) アラブ人 多民族の国際的な「教会」は、福音が小アジアとヨーロッパに広がるにつれて、後に発展しました。しかし、異なる種類の枝が元のオリーブの木に接ぎ木されるというパターンは、(ローマ11:17)すでに明らかであり、教会が生まれた初日から教会の基礎に組み込まれました。異なる言語、文化、民族的背景のこの組み合わせは、コミュニティ内の緊張を引き起こしました(使徒6:1)。 外国からの訪問者が帰国すると、福音は彼らの国に広がりました。各民族グループは、自分のアイデンティティ、さらには名称を探しました。「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」–使徒11:26。イスラエル内のユダヤ人の弟子たちは、新しい宗教を始めるのではなく、周囲のユダヤ人コミュニティの不可欠な一部として自分自身を見ていたので、別の「ブランディング(名称)」を求めていませんでした。 異邦人の間の教会の数が増えるにつれて、2つのアイデンティティが発展しました。各国の中で、彼らは「異邦人の教会」と呼ばれました。–ローマ16:4。一方、ユダヤ人の信者は、イスラエルの「残りの人々」と呼ばれました。「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」–ローマ11:5。使徒による会議(使徒15章)は、これら2つのグループが独自の集会のサブカルチャーを発展させることができると決定しました。 福音はヨーロッパに広がっただけでなく、エルサレムの「正統派」ユダヤ人のコミュニティにも浸透しました。何万人もの宗教的ユダヤ人が信仰に来て、ヤコブ(主の兄弟ヤコブの事―ヤコブ書)の周りに集まりました。彼らは、元のガリラヤの弟子とは少し異なる方法で、トーラーとラビ的習慣に忠実に、独自のライフスタイルを維持しました。「彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰に入っている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。」-使徒21:20。 この多民族による多様性は、エルサレム、ユダヤ、サマリア、そして地球の果てまで福音を説く事は、始まりの宣教命令による自然な成長です(使徒1:8)。 福音が今日、地球の果てからイスラエルに戻っているように、イスラエルのメシアニックジューとディアスポラ、すべての部族、言語、国家からのキリスト教徒(黙示録7:4、9)という、紀元1世紀のユダヤ人信者らの状況に幾分平行した状況の驚くべき回復が起こっています

聖なるか、それとも聖を行うか

By | 2019-10-11T15:21:30+00:00 October 11th, 2019|

愛と聖なる結婚 グレタ・マヴロ 主が世界の基礎を創られる前から私たちを選んだように、私たちも聖であるべきで、愛の主の前に聖で非難されることないようにあるべきです。(エペソ1:4) 聖さは、それが愛に根ざしていない限り、真の神聖ではありません。 それ以外の場合は、表面的で厳しく、宗教的になります。それは高く、達成不可能になります。私が聖であるように聖であれと命令されています。しかしそれはまた、私たちの最愛の主からの、一つになるための招待状です。真の愛は、最愛の人のようになりたいと願っています。主よ、あなたが聖なる方なので、私は聖なる者にとなりたいのです。私はあなたを愛しているので、私の神聖さは、あなたを(私の中で)表現する者になりたいのです。 聖さのない愛は肉欲的でこの世的です。愛のない聖さは高尚で表面的です。愛と聖性は統合されなければなりません。それは神において私たちを隔てる心であり、私たちが身に着けている表面的なものでもなく、または、私たちが従う規則(正気ではなく、心からでもなく)でもないものに分かれています。 聖さは目標を持っていなければなりません。そうでなければ、それは単に表面的な宗教、情熱と力の流れを妨げる、行う事、行わない事のリストになってしまいます。聖さの目標は神との結びつきです。本物の聖さは、神との結びつけに備える純粋な情熱です。 それは花婿との純粋な一致のための花嫁の情熱です。 聖さは愛によって点火され、愛は聖さによって浄化され、完成されます。 聖なるものから愛を分ける事、またその反対も、わたしたちの結婚、家族、教会にとって危険です。聖さがなければ、キリスト教の結婚で表現される愛は、この世と同じようになります。イェシュアが結婚の床から除去されると、汚れてしまいます。キリスト教の結婚は、情熱と純粋さの両方において、キリストと教会の一体を反映したものでなければなりません。それは、すべてのキリスト教の結婚は、キリストが存在しない世の結婚とは全く異なります。主は結婚の床を含む結婚のあらゆる部分に存在しなければなりません。 聖さと愛を分けることが、教会の中での離別と離婚の原因となっています。結婚(床)の中に愛のない聖さは、情熱が点火する妨げとなります。聖さのない愛は、純粋さの流れを妨げます。いずれにせよ、結合は表面的で機械的行為に矮小化されます。 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。: エペソ5:25-29 夫は妻を愛するとき、彼は自分自身を愛しています。彼は、彼女が彼自身の肉であるので、彼女を養い大事にします。このようにして、イェシュアは、たとえ主がご自身を愛しているとしても、私たちである主の花嫁と教会を愛しています。 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。エペソ5:32 イェシュアは、私たちは聖なる事をするのではなく、聖なる者であれと言っています。聖であることは、主と結びついている事と関係があります。私たちはつながっているので、私たちは聖なる者なのです。「聖なる行い」は、人によって作られた規則に従うことに懸命になることと関係があります。それは、自分が聖なるものであり、主との一体性に依存するものではないのです。もし、主(キリスト)が神との結びつきを通して聖なる者となるように、もし私たちも聖なるようになるならば、私たちは聖なる事をするでしょう。