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May 9th, 2020

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コロナ、慰め、そして憐れみ

リバイブ・イスラエルのフェイスブック上ライブからのメッセージ
2020年5月6日 アシェル・イントレーター

私は今、世界で何が起こっているのかを考えていました。多くの国がこのコロナ禍に苦しんでいます。これは単に医療の問題ではありません。これはまた経済問題なのです。これは人々が心配し、ストレスを感じているものです。彼らは病気になるのが怖い上、お金を失う事も怖いのです。そして、彼らは考え始めます。「私は死ぬかもしれない。または、社会全体の構造が倒れてしまうかもしれない。」

皆がプレッシャーを感じ、困難を覚えています。私はどう思うだろうか。私は皆が感じる事を全て感じていますが、違いは、私たちには内に信仰と力を帯びています。私たちはそれに対処するための聖霊からの励ましがあります。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(第二コリント1:4

これは、人に近づいて背中をたたいて「気分が晴れるといいですね。」と言うような慰めでじゃありません。これは、聖霊が私たちの内におり、私たちの魂と共にこの問題に対処するのです。

私たちはこれを、人々を慰め、励まし、力づけ、彼らがいる状況の中でその人を立て上げるすばらしい機会として見なければなりません。

これは憐れみ–他者か感じる事を感じ、それについて行う事です。今年の過越の祭の季節に、エジプトに対する神の最初の行為が、最初は状況がより悪化するように見えた事を思い出しましょう。モーセは神の元へ行って言いました。「何が起こっているのでしょうか。あなたは人々を救うのだと思っていましたが、今や全てが悪化しています。ファラオは私たちのワラを取り去り、私たちは走り回ってワラを集めなければならないのです。」

そして神の答えはこうでした。「今、あなたは私の力を見るだろう。」

そして、確かにこれは危険な状況でした。しかし、それはまたの機会にして、神の愛についてさらに見て行きましょう。

出エジプト記の少し戻って見てみましょう。私たちは、ある人物が慰めを与えています。それは誰でしょうか。それはファラオの娘でした。何というヒロインでしょうか。

「それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです」と言った。」(出エジプト記2:6

これがエジプトの王女だったのです!彼女の父は最近、すべてのヘブライ人の男の子を殺すように命じました。彼はすでにヘブライ人らに圧制を布き、彼らの神を拒絶し、彼らに信教の自由を与えませんでした!

しかし、この若い女性の憐れみは魔術、政治力、軍事力、帝国の霊的な堕落-それはあまりの悪いもので、その閣僚らは頭にヘビを冠していたほどです―よりも大いなるものでした。

王女は純粋に赤子のモーセに憐れみを抱いていました。彼女はこう思ったかもしれません。「この子はヘブライ人の赤ちゃんだと知っているけど、私の心は世界の中にある全ての悪よりも大きい。例えそれが私の父からのものであったとしても。」

何と言う驚く事でしょうか。出エジプト記について考える時、どれほどファラオが悪であろうと、どれほど彼の娘がすばらしいのかを考えます。実際、エジプトでは二つの事実がありました。悪は裁きに向かっていますが、エジプト人の核となる人が何らかの憐れみを持ち始め、イスラエルの民と行動を共にする者も現れます。彼らは、エジプトから出てきた「様々な人々の集団」となりました。

それは、この若い女性から始まりました。憐れみという単純な思いで、彼女はこの赤子を水から救い上げました。これは、神が決められた世界の救いの器であり、彼女は彼を救ったのです!彼らは、彼をモーセ(モシェー)と名付けました。ヘブライ語では、誰かを引き出すという意味です。サムエル記第2と詩篇18章を注意深く見ますと、実際に神がイエシュアを地獄から引き出している預言なのです。何と驚くべきことでしょうか。憐れみを持ったこの女性からすべてが始まったのです。これこそ、出エジプト記の中で、玉が転がり始めた事なのです。

これこそ、一人の小さな憐れみが出来る事なのです。私たちは憐れみを持って活動する準備が必要なのです。

憐れみに突き動かされて

困難な中で、他者を思いやる中で、信仰は憐れみの行為を表します。

難しい状況の中で、自分の問題をより考える傾向にある人々がいます。あなたは傷んでいる。そして、その痛みはあなたの注意を引きます。今、あなたや私、そして全ての人々は同じ痛みを経験しています。そして、それが自分自身の事、ストレスや困難を考えるようになるのです。それが自然ですが、自己中心性を問う機会なのです。「私の近所の人はどう感じているだろうか。」

ルカ10章で、あるサマリア人が旅をしていて、路上に倒れている人を見つけました。この人は強盗に遭い暴行されました。彼は傷つき地面に倒れていました。このサマリア人が彼を見た時、憐れみに突き動かされました。

この聖書的な憐れみは人に何かを起こさせる事に気づいて下さい。お金がいつも関わっているようです。このサマリア人は負傷した人の医療費を払いました。ファラオの娘はモーセの母に、この子を育てるようにお金を渡しました。

もしあなたが経済的余裕があるならば、手を伸ばしてください。聖書の創世記26章に、イサクは飢饉の時、種を撒きました。彼は、人々が十分に持っていない時に種を撒き、幾百倍の収穫をえました。ここに、私たちが手を伸ばして同じことを行う驚くべき機会があるのです。

聖書の中で、伝染性の高い疾患に対する二つの解決策

現在の世界は伝染性の高い疾患であるコロナウイルスに対処しています。聖書には、二つの不明瞭な章に、どのように祭司が伝染性の高い皮膚疾患(レビ記13and14)にどう対処すべきか、詳細に説明されています。驚く事に、ほぼ4千年前に、聖書は3つの指示を出しています。

  1. 人々を確認し、必要ならば検査する事。
  2. 水で洗う事。
  3. 感染した人々が、病気でない人と接する事のないようにする事。

この3つのルールは恐らく、世界中のどの新聞の第一面に載っているのではないでしょうか。これは、神の御言葉が真実である、一つの励みになります。

これらは、定め、律法です。律法に加えて、同じ病気を克服する次の段階があります。イエシュアの最初の癒やしの奇跡を見てみましょう。主は伝染性の高い疾患に罹った人を癒しました。

マルコ1:41には、「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」

イエシュアはハンセン氏病の男に語りました。イエシュアはレビ的律法によると、ハンセン氏病に罹った者と接触してはならない事について知っていました。それは律法ですが、イエシュアには律法よりも強い力がありました。この男は、今日の多くの人々と同じく、危機を迎えていました。これは、健康面の危機だけではありません。経済的危機だけではありません。これは、存在をかけた危機なのです。

私は果たして生きるのだろうか。

誰か私を気にかけてくれるのだろうか。

イエシュアは言いました。「ただ気にかけるだけではない、私は行動したいのだ。」主は手を伸ばして病気の男に触れ、彼を癒しました。

両方の段階は聖書に書かれています。一つの段階は、私たちは律法、政府、公衆衛生上のルールに従わなければなりません。検査し、洗い、隔離するのです。

しかし、もう一段階上があり、信仰が関わってきます。例え医師が出来なくても、私たちは神の力を得て人々が癒されるよう祈る事が出来ます。

癒やしの力の源は何でしょうか。イエシュアは憐れみに突き動かされました!

「イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。」(マタイ14:14

憐れみは私たちを動かします。それは何かを行います。憐れみによってイエシュアは手を伸ばして、主の周りにいる人々を癒やしました。私たちは、どのような状況であれ、そのような憐れみを持ちたいと思います。状況が悪ければ悪いほど、私たちは人々に接する機会が多くなるのです。全ての人々が身体的な癒しが必要なのではありません。ある人々は励ましが必要です。ある人々は資金援助が必要です。ある人々は、ただ電話で声をかけるだけでいいのです。孤独だからです。周すりを見て、憐れみに突き動かされ、それに基づいて行動する事を勧めたいと思いま。

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By | 2020-05-09T16:10:45+00:00 May 9th, 2020|Comments Off on コロナ、慰め、そして憐れみ