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June 7th, 2020

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コロナとの比較:疫病と祭司

ダニエルと共にどうぞ祈りに加わって頂けますか?

「私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。」(ダニエル書9:4-7

この時に、私たちの世代がこの地にいる事は、何と言う特権だろうかと考えざるを得ません。

コロナウイルスという現代の疫病に世界が直面している事について、これは奇妙な言葉だとあるものは考えるでしょう。しかしながら、どれほどの世代の信者たちが、メシアの再臨が近づいているこの終わりの日々までに、過ぎ去っていったでしょうか。疑問は、私たちは何をすべきで、何を期待したら良いのでしょうか。

同じような終わりの日々の「症状」ヨセフの時代にエジプトで診られたもので、それはヨセフが自身を彼の兄たちに示す前でした。彼は何をしたのでしょうか。彼は全てのエジプト人に部屋を出るように言いました。私たちの時代には何が起こったでしょうか。海外からの観光客はイスラエル入国出来なくなりました。メシアがご自身の民に示される時期が迫っているのでしょうか。

疫病が蔓延し、出エジプトの前にヘブル人はゴシェンの地にいました。ゴシェンは疫病が蔓延したでしょうか。そこには暗闇があったでしょうか。いいえ、実際、ゴシェンへの災いは、死の御使いが通り過ぎただけで、家々のかもいには犠牲の小羊の血が塗られていました。今日の災い(疫病)が街々を蔓延する中で、私たちはイエシュアの血でおおわれていなければならず、主の証人として進む必要があり、信仰と希望に満ちていなければなりません。勝利は私たちのものではなく、私たちを通して主のものであり、他者が主の平安を経験するためです。

神は、エジプトで、1つの災いだけですべてを成し遂げる事が出来ます。なぜ、ファラオの心が何度も頑なになるようなプロセスを何度も起こさせる必要があったのでしょうか。私たちが最近世界中で起こっている災害について考える時、何を見るでしょうか。地震、火山、洪水です。残念ながら、人々はこれらのものをやり過ごし、過去のものとして、元の生活に戻ってしまう傾向にあります。

民数記16:41-50に、なぜ神は時々繰り返されるのかが書かれており、それは、私たちがそれを理解するためです。人々は苦情を挙げ、神はモーセとアロンに、もう十分だ、そこをのきなさいと述べました。彼らはどうしたでしょうか。彼らは神の心、民を滅ぼさないと知っていたので、彼らは捧げものを持って立ちました。彼らは、会衆の中でつり香炉を持っていのちと死の間に立ち、罪のあがないを行いました。疫病が始まりました。多くが亡くなりましたが、完全な滅亡前に疫病は止まりました。人々は人の知恵や知識ではなく、神に目覚める必要がありました。

私たちは、神の御心を求めなければなりません。それが主の御心です。「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」(エゼキエル書33:11)

私たちは、この地で主の証人とならなければなりません。大祭司アロンのように、私たちは民の間に立つよう召命されています。彼らの代わりに、つり香炉を持って執り成しをするのです。

エルサレムから、地の果てまで私たちと共に礼拝して下さい。

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By | 2020-06-07T14:01:31+00:00 June 7th, 2020|Comments Off on コロナとの比較:疫病と祭司