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December 30th, 2019

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分断されていない心:パート2

さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:38-42

ここには、分断された心(マルタ)と分断されていないもの(マリア)の図があります。キリストの身体の多くはマルタのようで、内側では分裂し、外側では様々な活動によって引きずり回され、この忙しさは主に喜ばれていると考え、主の足で待っている他の人は単に怠惰であるか、忙しい人と一緒に活動することを望んでいないと考えてしまいます。これは新しい現象ではありません。

モーセが主の言葉に従って、ファラオに「民が主を礼拝出来るよう、民を行かせてください」と宣言したとき、ファラオは、民が怠惰であると言って拒否します(怠惰:ヘブライ語)。そのために、彼らは主に犠牲を捧げるため仕事を辞めたいと考えたのです。主は民を労働者/奴隷から崇拝者/祭司に変えることを望んでいました。ファラオ(サタンの一種)は、額の汗を通して偉大な建物を建築するような「より建設的な」何かで忙しくするより、主を「単に」礼拝するのは怠惰であることを神の民に納得させようとしました。

サタンは常に、主を崇拝することは虚栄心や怠惰であり、神の王国を進める上でさえ、より重要で必要なことが存在することを神の民に納得させようとします。しかし、主はモーセと人々にエジプト(この世)を離れ、山の上で、彼にお祝いをするように行くように命じられました。

「ファラオは「その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。『おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください』と言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。』(出エジプト記5:7-9

しかし、マリアは、分断されず、気を散らさない心で主の足元に座り、主の言葉に耳を傾けました。マルタは仕えたが、マリアは聞いた。マルタは奉仕(と不平)に引きずり回されたが、マリアは座って耳を傾け、彼女がそうした時、彼女は神を聞きました。ほとんどの信者は座って、主の御言葉を聞くのに十分な長さの耳を傾けません。彼らはあまりにも気が散りすぎて、心に分かれています。「人間はパンだけで生きるのではなく、神の口から出て行くすべてのレマによって生きるのです。」(マタイ4:4

マリアは、彼女の本当の人生は、主の心の豊かさから流れ出た言葉を聞く事にあると考え、無くなってしまうパンからではないことを学びました。彼女の肉はその言葉を聞いてそれを行う事でした。イエスは、私たちの最初の本当に必要なものは、主の言葉を聞くために主の足元に座っていることだと知っています。そして、主が私たちを導いてくださるすべてのことにおいて、主への奉仕は、カルバリーの愛の香りで世界を満たす香油をイエスの足に注いだマリアの行為によって完成します。

ユダがマリアの行為は無駄だと訴えると、イエスは埋葬の準備をしたので邪魔をしないようにと言います。マリアは、神の心、意志、タイミングと完全に調和し、自分の心の中で、主は世のために死ぬと聞いたことで、埋葬のために主の御身体に油を注いだ人物となりました。私たちはイエスの十分足元に座って、将来、主の来る日に備えて、現在主の言葉を聞いているでしょうか。

真の神の愛は、主と他の人が一部分しか合わない、分断し、気が散った心から決して流れ出ることはありません。真の神の愛は、測る事のない、最低限もない、全き癒された心全体からのみ流れ出、贅沢にそれを主に注ぎます。その性質上、神の完全な愛は決して一部分だけを流れる事はありません。

「というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分(別の語根では心配/分断)だからです。完全(終了;全体;成熟;キリスト自身)なものが現われたら、不完全なものはすたれます。(1コリント13:9-10

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリント13:12

私たちの心がすべての分裂を手放す時、私たちが本当に望み、完全な遺産の中を歩くことを望む時、新しい心の中で、完全に回復し、キリストの心の中で、私たちはもはやぼんやりと見るのではなく、面と向かって見るでしょう。私たちは今まで知っていたかのように知り、互いを神の御霊/心のように知り、古い傷や打ち砕かれた自分自身を通してでは見る事はないでしょう。

ですから、私たちは完全を目指して進み、私たちの前に置かれた希望を抱いて行きましょう。

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By |2019-12-30T15:19:04+00:00December 30th, 2019|Comments Off on 分断されていない心:パート2