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May 24th, 2020

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王という疑問

イエシュアが園で捕らえられた時、シモン・ペテロは大祭司のしもべの耳を切り落としました。ではここで、聖書の小クイズです。しもべの名前は何でしょう。その通り。「マルカス」です。次の疑問が沸きます。その名前の意味は何でしょう。

福音書はヘブライ語を母国語とする人がギリシャ語で書いたものです。「マルカス」という名には、ギリシャ語では何の意味もありません。その意味は「メレク」e、ヘブライ語で「מ-ל-כ」その意味は「王」です。

驚いたのは、ヨハネは次の2章で、王としてのイエシュアを語るシンボルとしてのヒントとして、これを書いたのです。ヨハネ18と19章では、他では見られない、イエシュアの王としての役割についての最も深遠な霊的な説明があります。

その説明は5つあります。

  1. ピラトがイエシュアを尋問する
  2. 兵士が主をあざける
  3. 群衆が拒絶する声を上げる
  4. 大祭司がカイザルに忠誠を誓う
  5. 十字架の上に掲げられた標示

その説明には疑問で始まっています。

ヨハネ18:33–「そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」

「はい」や「いいえ」と答える代わりに、イエシュアはピラトに、何について質問をしたのかと問いています。イエシュアがピラトに質問した理由は、その質問には二つの部分があります。

  1. あなたは、カイザルに反抗するための政治的な人物なのか。答えは「いいえ」
  2. あなたは別の種類の王なのか。答えは「はい」

それゆえ、私たちはまた、この問題の二つの半分について明確にしなければなりません。私たちは軍による反乱を主導するのではありません。しかし、神の権威を代表する油注がれた者、王であるメシアを宣言するのです。

イエシュアはピラトに、自分は確かに王であると伝えます。主の御国は天からのものであると(18:36)。それには天的な権威があり、この世界の政府を超えるものです(19:11)。主の御国は霊的な真理に基づくものです(18:37)。イエシュアが再臨される時、最終的に、この御国の天的権威と霊的な真理はこの世界の全ての政府に取って代わるのです。

ピラトとの討論の後、兵士らはイエシュアに暴行を加えました。

ヨハネ19:2-3–「また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。」

この奇妙なイエシュアへのあざけりは、実際には真理の鏡像なのです。それはまるで、逆さまの演劇の演出のようです。ある日、この世界の全ての兵士らと、政治、経済、軍事の権力を握る人全てがイエシュアの前に跪いて、主を彼らの王であり主であると認めるのです。

福音のメッセージは「全てのものは跪き」(イザヤ書45:23、ピリピ2:10)と宣言します。イエシュアは霊的に王として宣言されます。全ての人は主に従うよう召命されます。イエシュアを王として受け入れる者は主の御国に招待されます。主をあざける者もまた主を王として受け入れますが、祝福ではなく罰を受ける事になります。

この場合、兵士らはローマ人、異邦人、彼らの王であるカイザルを代表する者です。彼らは。イエシュアを王としてだけでなく、主をユダヤ人としてあざけったのです。それゆえ、彼らはまたユダヤの人々をもあざけったのです。彼らにとって、これはダヤ人を支配するローマの主権の一つの例なのです。

イエシュアはそこで、群衆の前に3つの異なった側面、あるいは特性で晒されます。

  1. ヨハネ19:5–見よ、その人を「イデ・アントロポス」
  2. ヨハネ19:7-神の御子「イホス・テオス」
  3. ヨハネ19:14–見よ、あなたの王を「イデ・バシレオス」

ピラトは群衆の前にイエシュアを連れ出しました。彼は「見よ、その人を」と言いました。(ギリシャ語で「人」は、「アントロポス」で、そこから私たち(英語)もアントロポロジー(文化人類学)や、アントロポモルフィズム(擬人感)という言葉があるのです。)聖書の記述はアダム、第一の人まで戻ります。ここで主は、イエシュアは、人類のドラマとトラウマを表します。イエシュアは究極の人類なのです。

ここでの人々の反応は、「彼を十字架に付けよ!」でした。曲解はあまりにも深く、あまりにも奇妙でした。これらは、人が人類をあざけったのです。これらは、ユダヤ人が究極のユダヤ人を呪ったので、自身を呪う結果となりました。

祭司(コハニム)は、主が十字架に付けられるべきとする理由は、主は自身を神の御子(19:7)だと述べたからだとしています。人々は彼を人として対処し、兵士らは彼を王として対処し、祭司は彼を神の御子として対処しました。各グループはそれぞれの関心に基づいて反応したのです。

祭司は続けて、イエシュアに対し死刑にするために行動しました。彼らが、ピラトが迷っているのを見て、彼らは戦略を変えました。彼らは、メシアの神聖についての神学的な議論がピラトに何の影響も与えていないのを見ると、彼らは話題を切り替えて、ピラトの弱み、すなわち彼の、カイザルを代表する立場に付け込みました。

ヨハネ19:12–「こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」

ある意味、祭司は、ピラトに、自身の職務に反する事をするなと言う事で、自身の職務を裏切るような事をしました。そこで、彼らは完全に信仰をも捨てたのです。

ヨハネ19:17–「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」

ユダヤのYHVHの祭司として、この宣言は理解を超えるものです。彼らはユダヤの神ではなく、異邦人の政治家を選んだのです。彼らはユダヤの王ではなく、異邦人の独裁者を選んだのです。このイエシュアへの拒絶は非論理的であり、自己破壊的です。

十字架の前のドラマの最終章に来るのは、ピラトがイエシュアを十字架に付けるよう連れ去らせ、兵士らに、彼の頭上に標識を付けるよう命じ、それが皮肉にも、公的にも、イエシュアは確かにユダヤ人の王と宣言するものとなりました。

ヨハネ19:19–「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。」

十字架がある場所は、エルサレムの門のすぐ外側の主要道路ぞいにありました。それゆえ、多くの人々にその標識は見られました。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれ、それは、カイザルの帝国全土で使われている言語でした。

祭司は、彼が自称した事を責めるというよりは、彼は王であると断言するような解釈となってしまうと抵抗しました。ヨハネはピラトの言葉を記録しています。ヨハネ19:22–「私の書いたことは私が書いたのです。」ヨハネは、ピラトの決断を、神が関与されたものと考えたのです。

ヨハネの視点では、ピラトは預言したのです。大祭司がイエシュアの十字架(ヨハネ11:50)を預言したように。預言は皇帝の代表によって語られました。これはイエシュア、人であり、王となる人物で、ある日、彼(皇帝)と入れ替わる人物となるのです。

十字架上で、イエシュアは大声で、私たちの罪を許す祈りをしました(ルカ23:34)。さらに、言葉のメッセージに加えて、書かれたメッセージがあり、イエシュアはユダヤ人の王と書かれていました。口から発せられた言葉で、イエシュアは私たちの救いを宣言しました。同じその十字架上に、文書でピラトはイエシュアの御国を宣言しました。私たちは口頭のメッセージと救いと御国の文書を受け取るのです。

イエシュアはマルカス、ユダヤ人の王です。それは天であらかじめ定められたもので、その後ローマ人総督によって宣告されました。これは法的であり、公式であり、決められたものであり、書かれたものなのです。

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By | 2020-05-24T14:34:07+00:00 May 24th, 2020|Comments Off on 王という疑問