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July 11th, 2020

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逆境、希望、救い

「私が苦しんでいるときに、御顔を私に隠さないでください(詩篇102:2)。

詩篇102:1−12は、苦しみの只中にある人による祈りです。私たちにも彼の気持ちがわかると思います。彼は神さまの前に、心の内を、恐れや悲しみを吐露しています。彼はあらゆる方向から押し潰されそうに感じています。彼の敵について、そして自身の身体の状態について述べています。その一方で、問題の一部は、作者が神から遠く離れていることなのだという印象を受けます。

これは、ダビデ自身における個人的なあがきなのでしょうか、または神さまが彼の行動を喜ばず、彼の悔改めを待っておられるのでしょうか。理由がどうあれ、これは誰にとっても、危険をはらんでいる場面です。

この状況で、どうしたら神さまの前に来ることができるでしょうか。彼は身体的・精神的にも、霊的にも渇き切った状態であることが見て取れます。ダビデは水が必要でした。彼は、彼の生命をうるおしてくくださる聖霊さまの臨在が必要でした。ここで言及されている鳥は、砂漠や荒地に住んでいるもので、死や破壊の象徴です(6節)。

興味深いことに、ダビデは孤独さについて屋根に止まっている鳥のようだと表現しています(7節)屋根の上でひとりぼっちだというイメージは、いつのダビデだったのでしょうか?それは彼がバテシェバを見たときでしたが、それは彼をどのような状況に導いたのでしょうか?彼が居るべき処に居なかったが故に、その状況に陥ったのです。

ダビデの苦しみの深さは、彼の盃が涙で満たされることで表現されています(9節)。全ての人が彼にあらがいます。御言葉の中で、彼ほど蔑まれた人がいるでしょうか?私たちは、まさにこの場面にイェシュアを見ます。空虚さの中から、神さまから遠く離れ、数人どころか全ての人々が彼に叛旗を翻す中で、アッバ(お父さん)に叫び求めます。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」(詩篇22:1; マタイ27:46)

これは何も包み隠さない、透明な弱さであり、疑念なのであり、私たちも自身の中にも潜んでいるものです。12節では、ダビデに何かスイッチが入り神さまに顔を向けます。「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。」

神さまがどういうお方か、何を約束されているかを宣言することで、変化がやって来ます。この詩は、ここで1人の人だけが苦しんでいるのではなく、私たち全てが苦しみに喘いでいるのです。誰も苦しみのもがきや、試練、悲しみに対して、免疫を持っていません。神さまは私たちが神さまに顔を向け、全面的に信頼するようになることを望んでおられます。

ここ20節で言及されている囚われ人とは誰で、その意味する牢獄とは何なのでしょうか?神さまの救いの中に住んでいない人にとって、死への恐れが最も強大な牢獄の一つです。主は、この世のプレッシャーを超越したところへ、私たちを導かれます。讃美とワーシップに深く入るとき、私たちは、聖霊に満たされ神さまに感謝を捧げます。私たちは混乱や、恐れ、疑念から脱出する方法を見つけるのです。

ここに、私たちは一人で屋根に止まっている鳥から「新しく変えられ」、鷲のように全ての状況を超えて、滑空するのです(イザヤ40:29-31; 詩篇103:5).

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By | 2020-07-11T14:24:57+00:00 July 11th, 2020|0 Comments

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