About Asher Intrater

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全てにおける死と復活

全てにおける死と復活 聖書は異なった人々によるものの、全て聖霊により霊感を受けて書かれました。よって各書はスタイルこそ違えど、底には同じテーマが流れています。彼らはそれぞれ異なった歴史的状況を記していたのに、皆が一つの恒久的計画を示していたのです。 創世記から黙示録に至るまで、聖書全体の中心的人物は、神の子であり、ダビデの子なる、イェシュア(イエス)なのです(ローマ1:3-4)。 律法書(モーセ五書)や預言書(ヨシュア、士師記、イザヤ等を含む旧約聖書の区分)にて、イェシュアは、YHVH(イェホヴァ)の御使いとして、福音書ではメシアとして啓示されています。 聖書の中心的出来事はイェシュアの死と、復活です。これらの出来事は律法書と預言書には予兆として示されており、福音書にて実現しています。イェシュアの死と復活は、天地創造の前から神さまにより定められ、計画されていたのです(黙示録13:8、第一ペテロ1:20)。 自然界の全て歴史は、死と復活のテーマを反映しています。 天文学 – 月の満ち欠けは1ヶ月周期で、その中で一見、月は死に、甦っているような事を繰り返します。ヘブライ語の「月(ホデシュ)」は「新しい(ハデシュ)」と同じ語根です。太陽は毎日沈み、空は暗くなりますが、朝になる度に光が戻ります。 農業 – 全ての植物は成長し、種が土に落ちて死ぬと、それが甦り、育ち更に多くの実を結びます。自然界の全ては、今苦しんでいますが、やがて神さまの御国において、解放され、回復されます(ローマ8:19-22)。 私たちが食べる食料も、動物性の産物の場合、それら生きていた彼らの命が犠牲となって、私たちの生命は継続させる事ができるのです(創世記3:21)。 芸術 – 映画、文学、絵画、その他全ての創造的な芸術において、英雄/ヒーローたる人が自分の生命を諦め、無垢な人々を救い、クライマックスでは感動的なカムバックを果たすというテーマがよくあります。ユダヤ人芸術家のマルク・シャガールは、十字架刑とホロコーストを比較する一連の絵画作品を残しました。リック・ヴィーネックの彫刻作品群の「Fountain of Tears/涙の泉」も同様の比較を描写しています(www.castingseeds.com)。魔法使いのシリーズであるハリーポッターでさえ、キングスクロスの友人たちを救うため、自分の生命を犠牲にし、後で死から甦るヒーローが描かれています。 物理的肉体 – 神さまは、毎晩私たちが暗闇の中で数時間のあいだ、動く事なく体を横たえ、夜明けに再び起き上がるよう、私たちの肉体を設計されました。これも死からの甦りと似ています。敬虔なユダヤ人の毎朝の最初の祈りでは、起床を復活と比較しているのです。 霊的生活 – 全ての新生体験を持っているクリスチャンは、その新生と神さまと歩む霊的生活の源流が、自己をイェシュアの十字架に重ね合わせる事にあると知っています(ガラテア2:20)。浸水洗礼においては、洗礼式は一度土に埋められ、そして甦ることを象徴しています(ローマ6:4)。主に捧げる私たちのミニストリーでは、「ビジョンにおける死と復活」を経験します。 レビ的祭司職 – 神殿の祭司たちは毎日動物の犠牲を捧げていましたが、それは私たちの罪の贖罪のために殺され、そして死から甦るメシアの象徴だったのです(レビ記16章)。 イスラエルの歴史 – [...]

By | 2020-07-27T10:25:08+00:00 July 27th, 2020|0 Comments

問題から逃げる?

問題から逃げる? アシェル・イントレータ* 「患難」について話す時、多くの人は即座に終末時代のシナリオを連想します。しかし私たちは逆境に対する一般的な態度に注目する必要があります。信者として問題が起こったとき、どの様に反応するべきでしょうか? 新約聖書のギリシャ語スリプシスは、「患難、苦痛、問題、苦悩、迫害、重荷、抑圧と訳される語彙です」。これは45回の出典があります。言及されている内容を、簡単に調べてみたところ以下の通りです: 38回は、逆境の中を歩む中で、強められ、助けられ、勇気付けられ、救い出されると書かれており 7回は、この質問には関係がないと思われ、 信者が逆境を経験することはないとか、逆境に対処しなくて良いよう、この世から取り除かれるという約束はゼロ、皆無なのです(!) ギリシャ語のスリプシスに当たるヘブライ語は、ツァラーです。ツァラーは「問題、苦痛、逆境、苦悩、患難、きついこと」と訳され、律法書と預言者書の中で73回の出典があります。また、言及内容は以下の通りです: 69回は、問題の中を歩む中で、神に叫び求め、守られ、救い出され、強められると書かれており、 3回は関係がないように思われ、 1回の例は、苦痛が取り去られ、または避けられたとありました。 詩篇の中の多くの祈りは、逆境の中にあって神さまに叫び求めるものです。救いのヘブライ的概念は、救い出されること、悔い改め、浄化、敵の攻撃の中にあっての守りなのです。   独りではない 私たちの信仰の局面の一つは、問題のある時にどの様に対処するかを学ぶことです。神さまは、特に問題のある時にこそ臨在される方です(詩篇46:1、91:15)。 不道徳がこの世の支配的な文化であるため、義の道を歩もうとする人々にとっての規範的経験は、困難に直面しなければなりません。 「患難前携挙説」について私が懸念していることの一つは、それが間違った終末論であること以外に、逆境に対処する一般的な姿勢としてです。信仰は困難の中にあって、助けてくれます。神さまは試練や患難の中で、救い出してくださるのです。困難な状況に忠実に忍耐をもって、対処する中で、品性が練られます。リバイバルは多くの場合、迫害を伴っています。 あなたは何の種? 逆境にどう対応して良いか分からない人は、マタイ13:21の2つ目の種のようです:「しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」 「患難前携挙説」と「慰めだけ」タイプのメッセージの両方は、根も、品性もなく、これから先に私たちが遭遇する困難な日々に耐えられない信者を作り出してしまいます。イェシュアのたとえ話のように、多くの人が早々とつまづきます。信仰により逆境に対処し、日々の救いにおける神さまの力を知ることは、私たちの世代にとって、非常に重要なのです。 使徒14:22 – 「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない』と言った。 [...]

By | 2020-06-29T10:36:17+00:00 June 29th, 2020|Comments Off on 問題から逃げる?

王という疑問

王という疑問 イエシュアが園で捕らえられた時、シモン・ペテロは大祭司のしもべの耳を切り落としました。ではここで、聖書の小クイズです。しもべの名前は何でしょう。その通り。「マルカス」です。次の疑問が沸きます。その名前の意味は何でしょう。 福音書はヘブライ語を母国語とする人がギリシャ語で書いたものです。「マルカス」という名には、ギリシャ語では何の意味もありません。その意味は「メレク」e、ヘブライ語で「מ-ל-כ」その意味は「王」です。 驚いたのは、ヨハネは次の2章で、王としてのイエシュアを語るシンボルとしてのヒントとして、これを書いたのです。ヨハネ18と19章では、他では見られない、イエシュアの王としての役割についての最も深遠な霊的な説明があります。 その説明は5つあります。 ピラトがイエシュアを尋問する 兵士が主をあざける 群衆が拒絶する声を上げる 大祭司がカイザルに忠誠を誓う 十字架の上に掲げられた標示 その説明には疑問で始まっています。 ヨハネ18:33–「そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」 「はい」や「いいえ」と答える代わりに、イエシュアはピラトに、何について質問をしたのかと問いています。イエシュアがピラトに質問した理由は、その質問には二つの部分があります。 あなたは、カイザルに反抗するための政治的な人物なのか。答えは「いいえ」 あなたは別の種類の王なのか。答えは「はい」 それゆえ、私たちはまた、この問題の二つの半分について明確にしなければなりません。私たちは軍による反乱を主導するのではありません。しかし、神の権威を代表する油注がれた者、王であるメシアを宣言するのです。 イエシュアはピラトに、自分は確かに王であると伝えます。主の御国は天からのものであると(18:36)。それには天的な権威があり、この世界の政府を超えるものです(19:11)。主の御国は霊的な真理に基づくものです(18:37)。イエシュアが再臨される時、最終的に、この御国の天的権威と霊的な真理はこの世界の全ての政府に取って代わるのです。 ピラトとの討論の後、兵士らはイエシュアに暴行を加えました。 ヨハネ19:2-3–「また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。」 この奇妙なイエシュアへのあざけりは、実際には真理の鏡像なのです。それはまるで、逆さまの演劇の演出のようです。ある日、この世界の全ての兵士らと、政治、経済、軍事の権力を握る人全てがイエシュアの前に跪いて、主を彼らの王であり主であると認めるのです。 [...]

By | 2020-05-24T14:34:07+00:00 May 24th, 2020|Comments Off on 王という疑問

コロナ、慰め、そして憐れみ

コロナ、慰め、そして憐れみ リバイブ・イスラエルのフェイスブック上ライブからのメッセージ 2020年5月6日 アシェル・イントレーター 私は今、世界で何が起こっているのかを考えていました。多くの国がこのコロナ禍に苦しんでいます。これは単に医療の問題ではありません。これはまた経済問題なのです。これは人々が心配し、ストレスを感じているものです。彼らは病気になるのが怖い上、お金を失う事も怖いのです。そして、彼らは考え始めます。「私は死ぬかもしれない。または、社会全体の構造が倒れてしまうかもしれない。」 皆がプレッシャーを感じ、困難を覚えています。私はどう思うだろうか。私は皆が感じる事を全て感じていますが、違いは、私たちには内に信仰と力を帯びています。私たちはそれに対処するための聖霊からの励ましがあります。 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(第二コリント1:4) これは、人に近づいて背中をたたいて「気分が晴れるといいですね。」と言うような慰めでじゃありません。これは、聖霊が私たちの内におり、私たちの魂と共にこの問題に対処するのです。 私たちはこれを、人々を慰め、励まし、力づけ、彼らがいる状況の中でその人を立て上げるすばらしい機会として見なければなりません。 これは憐れみ–他者か感じる事を感じ、それについて行う事です。今年の過越の祭の季節に、エジプトに対する神の最初の行為が、最初は状況がより悪化するように見えた事を思い出しましょう。モーセは神の元へ行って言いました。「何が起こっているのでしょうか。あなたは人々を救うのだと思っていましたが、今や全てが悪化しています。ファラオは私たちのワラを取り去り、私たちは走り回ってワラを集めなければならないのです。」 そして神の答えはこうでした。「今、あなたは私の力を見るだろう。」 そして、確かにこれは危険な状況でした。しかし、それはまたの機会にして、神の愛についてさらに見て行きましょう。 出エジプト記の少し戻って見てみましょう。私たちは、ある人物が慰めを与えています。それは誰でしょうか。それはファラオの娘でした。何というヒロインでしょうか。 「それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです」と言った。」(出エジプト記2:6) これがエジプトの王女だったのです!彼女の父は最近、すべてのヘブライ人の男の子を殺すように命じました。彼はすでにヘブライ人らに圧制を布き、彼らの神を拒絶し、彼らに信教の自由を与えませんでした! しかし、この若い女性の憐れみは魔術、政治力、軍事力、帝国の霊的な堕落-それはあまりの悪いもので、その閣僚らは頭にヘビを冠していたほどです―よりも大いなるものでした。 王女は純粋に赤子のモーセに憐れみを抱いていました。彼女はこう思ったかもしれません。「この子はヘブライ人の赤ちゃんだと知っているけど、私の心は世界の中にある全ての悪よりも大きい。例えそれが私の父からのものであったとしても。」 何と言う驚く事でしょうか。出エジプト記について考える時、どれほどファラオが悪であろうと、どれほど彼の娘がすばらしいのかを考えます。実際、エジプトでは二つの事実がありました。悪は裁きに向かっていますが、エジプト人の核となる人が何らかの憐れみを持ち始め、イスラエルの民と行動を共にする者も現れます。彼らは、エジプトから出てきた「様々な人々の集団」となりました。 それは、この若い女性から始まりました。憐れみという単純な思いで、彼女はこの赤子を水から救い上げました。これは、神が決められた世界の救いの器であり、彼女は彼を救ったのです!彼らは、彼をモーセ(モシェー)と名付けました。ヘブライ語では、誰かを引き出すという意味です。サムエル記第2と詩篇18章を注意深く見ますと、実際に神がイエシュアを地獄から引き出している預言なのです。何と驚くべきことでしょうか。憐れみを持ったこの女性からすべてが始まったのです。これこそ、出エジプト記の中で、玉が転がり始めた事なのです。 これこそ、一人の小さな憐れみが出来る事なのです。私たちは憐れみを持って活動する準備が必要なのです。 憐れみに突き動かされて [...]

By | 2020-05-09T16:10:45+00:00 May 9th, 2020|Comments Off on コロナ、慰め、そして憐れみ

イエシュアの第一の啓示:エホヴァ、イエスそして裁き

イエシュアの第一の啓示:エホヴァ、イエスそして裁き イエスの御名の原語はイエシュア–ישוע。です。イエシュアはヨシュアの短縮形で、その原語はイェホシュア–יהושע。です。イェホシュアとは、「エホヴァが救われる」という意味で、エホシャファットがיהושפט「エホヴァは裁かれる」という意味となります。 ほとんどの人々はそれを知りませんが、YHVH又はエホヴァという名はイエシュアの御名の中に含まれています。イエシュアが私たちを救うために来られましたが、また、主は裁き、戦い、諸国を支配されるために再臨されます。(黙示録19:11-16)。 終わりの時の出来事を見ていくと、そこには大変な災いや裁きがあり、それらは私たちのほとんどにとって、神学の枠組みや神がどういうお方かという理解を遥かに超えるものです。 終わりの時の出来事と出エジプト記の出来事には、平行する共通点がたくさんあります。あるラビは言いました。「最後の贖いは、最初の贖いに似ている。」メシアが来られる事と世界の終わりは、出エジプト記の中のパターンに基づくものとなります。モーセがメシアの役割を果たしたように。 出エジプト記では、神は壊滅的な災いをエジプトにもたらしました。それは、彼らの帝国を破壊するため、彼らを悔い改めさせるため、そして、人々を解放するためでした。神は人(モーセ)を用いてそれらの災いをもたらすための権威を行使しました。(災いのヘブライ語は「マコット(מכות)」その意味は「打つ」です。なので、「十の災いは」「十の打撃」とも訳せます。) 災いはまた「破壊者」による攻撃とも説明されています。(出エジプト記12:13)。しかしながら、出エジプト記の強調点は、この災いは神による罰であり、それは神の人類の代表によって実行され、すでに決定されている目的のために行われました。各災いの最初と最後はモーセとアロンによって制御され、彼らは神からの直接の命令に従っていました。 これらの種類の出来事は終わりの時に再び起こります。(ダン・ジャスター師の「黙示録:過越の祭の鍵」を参照)ファラオの帝国のような悪の反キリストの帝国が存在する事となります。神はその帝国を巨大な裁きによって破壊します。災いには3つの主要な目的があります。 差し迫った破滅を邪悪な者への警告 罪人を悔い改めと救いに導く 聖徒をより偉大な信仰と純粋に昇華させる 神は地上のご自分の民に、主の裁きに積極的に同意して欲しいと望んでいます。私たちは信仰によって神と協力するのです。モーセとイスラエルの民がそうしたように。私たちの神の理解にどう整合性が取れるのでしょうか。 私たちは神の優しさと厳しさ両方を受け取らなければなりません。(ローマ11:22)神がどういうお方であるのか、私たちの理解を拡大させなければなりません。終わりの時の出来事を理解するために、これらの終わりの時に働かれる神のご性質を理解しなければなりません。イエシュアがどういうお方であるのかが、黙示録の第一章でそれは黙示録の出来事に先立って明らかにされています。 Whenイエシュアが誕生した時、人々にとって神が人の形、普通の栄光をまとわない姿を取る事を理解するのが困難でした。主が死者から復活した後、難しい弟子にとって主がどういうお方なのかを理解するのが困難でした。主は異なった姿で来られ、彼らが主を認識するのに追加の啓示が必要でした。(ルカ24:13-5)。 出エジプト記6:1-8モーセにも似たような経験しました。神はモーセに、神は、人々には「エル・シャダイ」という名で知られていたが、YHVH(エホヴァ)という名では知られていなかったと伝えました。主は続けて、5または6つの方法で国に裁きと贖いをもたらすと述べました。それはYHVHの御名の特性を表しています。 私たちは今似たような状況にあります。私たちはイエシュアを、ガリラヤ湖の湖畔を歩く人として知っています。しかし、主をYHVH-イエシュア、天の軍勢の司令官、全地の裁き司、神の怒りを実行する者、偏在する、全支配者である王としては知っていません。 私たちの前に展開する出来事に対処するため、私たちはイエシュアがどのようなお方なのか、その理解を劇的に変える必要があります。これは、パトモス島にいたヨハネに起こった事でした。ヨブも嵐の中の主という、似たような経験をしました。モーセも燃える柴で、弟子もエマオへの路上で似たような経験をしました。 ヨハネはパトモスでの経験で衝撃を受け、変えられました。私たちは皆個人的なパトモス的な経験をしなければなりません。もし私たちが黙示録のイエシュアに対処出来なければ、黙示録の出来事にどう対処できるでしょうか。 今こそこれが起こらなければなりません。これは、変革への重要な「カイロス」の時なのです。黙示録第一章を読んで理解しましょう。そうすれば、黙示録の出来事を受け入れ、経験する事が出来ます。 律法と預言書では(訳者注:旧約聖書の事)エホヴァ-御使いは、イスラエルの外では、主は栄光の神的な姿で現されますが、主がイスラエル国内にいる時、普通の人の姿を取られていると私は思います。(私の本「誰がアブラハムと食事をしたのか」の、御使い-エホヴァが30か所以上現れる事の説明をどうぞご覧ください。) [...]

By | 2020-05-04T12:43:41+00:00 May 4th, 2020|Comments Off on イエシュアの第一の啓示:エホヴァ、イエスそして裁き

ハンナからハンナへ

ハンナからハンナへ 私はハンナ(預言者サムエルの母)の祈りに驚いています。聖書の中で(その他でも)、良いことは女たちの祈りから始まっているように思います。 多くの場合、絶望の祈りを捧げるのは絶望にある女なのです。 ハンナの前にはサラ、リベカ、ラケル、ミリアム、エジプトにて、息子たちが殺された、全てのユダヤ人母親たちがいました。神さまは彼女たちの、不妊やその子供たちに起こった困難を用いて、彼女たちがより深く執り成して祈るよう、梃入れされたのです。 ハンナは不妊であったため、彼女の夫はもう1人妻、ペニナを迎え、その妻から子供たちをもうけました。ペニナは彼女をからかいました。ハンナは、ペニナに比べ信仰深かったのに、「祝福」されていませんでした。彼女は落胆し、苦々しさを感じ、不満を持ち、また少し、神と夫に対し怒りを感じていました(第1サムエル1:7)。 彼女は絶望の祈りをするところまで追い詰められていました(そここそ、最初から神さまが彼女を追い込もうとしておられたポイントだったのです)。ハンナは食事を摂ろうともせず 、ただひたすら泣き、祈っていたのです。 第1サムエル1:10 – ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。 苦悩の底からの祈りで、彼女の魂は神さまに焦点を合わせ、主に誓いを立てました。もし子供に恵まれたなら、その子供を主に捧げると誓いました(11節)。当時、統治する士師もおらず、明快な預言もなく、祭司職は腐敗してしまっていました。この1人の女性の焦点が絞られた祈りと献身が、歴史の全てを変えました。 ハンナの祈りは、ゲッセマネにおけるイエスさまの祈りや、ペンテコステ(シャヴオット)の弟子たちの祈りと比べることができます。祭司のエリは彼女が酔っ払っているのかと思いました(14節)。しかしハンナは「いいえ」と答え、続けて言いました「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。」 第1サムエル1:15。彼女の魂からの注ぎ出しの深さ故に、彼女の祈りは答えられたのです。 彼女の祈りに対する即時的な答えは、「この子」第1サムエル1:27)だったのです。しかしこの子は、ただの普通の子供ではありませんでした。古代イスラエルに、彼は預言の賜物を回復しました。事実、彼は預言の新しい時代を切り拓いたのです。彼は王国に;ダビデ王に油注ぎをもたらし、それは究極的には、やがて来られるメシアのためでした。 預言の賜物は、2章に記されている彼女の歌った讃美のように、第一にハンナにもたらされました。(この「ブレークスルー」を成し遂げた女性のため、聖書の内、2つの章全部が割かれているのです。)彼女の歌には以下の事が啓示されています: 死人の復活:YHVH(主)は殺し、また生かし– 2:6. よみに降り、そして帰ってくる:主はよみに下し、また上げる– 2:6 貧しい人々に対する正義:主は、弱い者をちりから起こし– 2:8 王国の権威:彼らに栄光の位を継がせます– 2:8 裁きの日:YHVHは地の果て果てまでさばき– 2:10 ダビデの王国:ご自分の王に力を授け– 2:10 イェシュアの王国:主に油そそがれた者の角を高く上げられます– 2:10 これは1つの祈りとしては、素晴らしいものだと思います。これは実は、メシアの到来と御国についての預言で、最初の直接的なものとなるのです。彼女にとって、産みの苦しみの祈りにより、サムエルを出産しただけではなく、メシアの御国についての啓示をも産んだのです。彼女はサムエルとともに、霊的にはダビデとイェシュアにとっても産みの親となりました。 彼女の祈りは、ルカ2章にて、ハンナと名付けられた別の女性により、継続されました。残念なことに多くの翻訳ではこの女性はハンナではなく、アンナと呼ばれているため、読者はヘブライ語的な繋がりを見逃すことになってしまいます。ルカ2章のハンナの祈りは、第1サムエル2章のハンナの祈りの続きなのです。 [...]

By | 2020-04-19T14:46:39+00:00 April 19th, 2020|Comments Off on ハンナからハンナへ

過越の祭の世界的なアラインメントと最後の晩餐

過越の祭の世界的なアラインメントと最後の晩餐 訳者注:アラインメント:神のご計画、神の意志に人が合わせる事 何年も、神は私たち、聖霊が内に臨在する世界の信仰の家族を一つにまとめようとされています。私たちはこのビジョンヨハネ17章にあるイエシュアの祈りから受け取りました。それは、神の愛によって皆が一つになるようにというものです。私たちは国際的なエクレシアの現実を経験しています。互いに対する愛が深まるほど、信仰の交わり、コイノニア(小規模な集まり)、そして聖餐式はその質とも量ともかつてないほど成長、改善しています。 私たちはまた、ユダヤ人、アラブ人、そして諸国の人々との間の契約的関係を伴う戦略的アラインメントに入って行っています。そのような世界的な関係の傾向は歴史のどの段階でも起こって来ませんでした。 私たちは今、この国際的な交わりを、神の歴史的な契約の秩序、聖書のカレンダー/暦そして預言的なパターンに沿うよう求めています。しかしながら、どこでも私たちがユダヤのルーツ、世界的なアラインメント、聖なる日々などを話す時、私たちは十分に気を付けなければなりません。それは、すぐにでもバランスを崩してしまうからです。どちらの側でも間違いが起こります。それは、ユダヤ文化に寄せすぎる事や、ユダヤの例祭や象徴にある聖書の重要性を拒否する事です。 私たちが世界的な聖餐式を神の契約パターンに沿わせる時、そこには大いなる霊的な力が解放されるものと信じます。正しいアラインメントは、私たちが正しいバランスを維持する事が求められます。 中央の水平の線–世界的な家族、諸国での聖餐式、この線は全世界を横切ります。これこそ私たちが先週行ったもの–147ヵ国から120、000超の件のオンライン接続がありました。 諸国での聖餐式と過越の祭が交わるところが最後の晩餐です。最後の晩餐は聖餐式でしょうか、それとも過越の祭のセデル(夕食)でしょうか。それは両方でした。ユダヤ共同体とクリスチャン共同体は分裂し、一方は聖餐式に行き、もう一方はセデルに行き、それを合わせる力はありません。 それらを一つにするには、つなげるピン留めは最後の晩餐です。これは完全にユダヤの過越の祭であり、完全にクリスチャンの聖餐式です。このつなぎ目ピンは諸国のエクレシアの聖餐式と過越の祭の契約の食事、すなわちイエシュアと弟子たちの最後の晩餐なのです。 過越の祭と聖餐式は共に最後の晩餐です。この二つが一つになり、同時にそれぞれの特性は維持されます。私たちは二千年間の分離の後、過越の祭と聖餐式を一つにまとめたいと思います。最後の晩餐は交差点なのです。最後の晩餐を理解する事は、聖餐式が過越の祭にアラインメントされる事を表します。 世界中のクリスチャンはユダヤの過越の祭のセデルを守らなければならない、という事ではありません。しかしながら、過越の祭は諸国のクリスチャン聖餐式の源流であり土台なのです。私たちは、クリスチャンに、最後の晩餐をその正しい文脈の中で理解する事によって、過越の祭の中にある契約的土台に再度合わせていくことをお願いしているのです。 ユダヤの世界では、私たちは、過越の祭は最後の晩餐において成就と考えています。過越の祭の小羊、ワインの盃、マッツァ(種無しパン)、などの象徴–全てはメシアであるイエシュアにおいて重要性を持つのです。イエシュア抜きに、過越の祭の象徴は預言的な意味を失います。 最後の晩餐は過越の祭における成就であり、最後の晩餐は聖餐式の土台です。両者は二千年間分離したままでした。今や、諸国のエクレシア、メシアニックジューとクリスチャン・アラブ人を含めて、私たちはこれら二つの大いなる要素を元の一つに戻す機会が与えられています。 これは、歴史をさかのぼって過越の祭を理解するクリスチャンだけの問題ではありません。私たちが過去を理解する時、私たちがどういう未来に行くかが分かります。それは弓矢のようなものです。弓を後ろに引き絞り、矢は前に飛ぶのです。 聖餐式は超自然的な霊的経験です。しかし、その契約的ルーツ抜きで頂く時、そこには何の預言的な指示はありません。最後の晩餐を通して聖餐式が過越の祭に沿わせる時、ベクトル(進路)が形成されます。過越の祭は最後の晩餐に、そして聖餐式に、ある方向に共に指し示す事となるのです。 過越の祭の意味は過去、現在、そして未来です。ラビでさえも、過越の祭は単にファラオやピラミッドなどの過去を覚えるだけのものではないと教えています。過越は、完全な国の贖いとメシアの来臨を期待する事だと教えています。それには、メシアの御国の未来が含まれています。 クリスチャンの聖餐式を契約的源流であるユダヤの過越の祭に沿わせる事は、私たちが終わりの時のイベントに備える事が出来るのです。出エジプト記の物語の要素は、私たちにイエシュアの再臨について教えてくれます。 過越の祭には二つの部分があり、最初は小羊の血による救いであり、そして、紅海における軍事的勝利です。個人的贖いはイエシュアの初臨で成就し、完全な贖いは主の再臨によって成就します。神のパターンに合わせる事は、私たちを正しい方向に向かわせ、終わりの時とイエシュアの御国が訪れる事に対する準備を可能にします。 エジプトから様々な人種の集団が出て行きました(出エジプト記12:38)。それは最初からまさしく神の目的でした。-主は人々の集団を求めていたのです。このような複数の集団は最終的に大いなる集団となり、誰もそれを数える事が出来ません(黙示録7:9)。神は、「特別な人々」と、各国からの忠実な祭司職(出エジプト記19:5-6、第一ペテロ2:5、黙示録1:6、5:10)望まれています。 ユダヤ人、アラブ人、そして各国の民族集団はその「特別な人々」に含まれます。一人一人や、各民族グループは、神の家族では等しく扱われます。諸国のエクレシアが正しいアラインメントに合わせる事で、大いなる力が解放されます。神の栄光ある目的が、主の子どもたちに皆示されるのです。 [...]

By | 2020-04-10T14:13:25+00:00 April 10th, 2020|Comments Off on 過越の祭の世界的なアラインメントと最後の晩餐

終末時代のまとめ–パート2

終末時代のまとめ--パート2 終末についての学びは、とても複雑になりがちで、多くの不確定要素や流動的なところがあります。終末時代の全体像について7つの言葉にまとめてみたいと思います: 艱難 迫害 エクレシア(国々の教会) イスラエル ハルマゲドン 再臨 千年紀 一つずつ、続けて簡単に定義して行きましょう。 5.ハルマゲドン 世界中の霊的な紛争は一つの大戦へと収束されます。この戦いの中心は、世界中の諸国が一つとなってイスラエルに対してしかけてくるものです。(ゼカリヤ書14:1-2,エゼキエル書38-39)諸国が北からイスラエルに侵入してくると、ハルマゲドン(ヘブライ語הרמגידו)またはメギドと呼ばれるジェズリエルの谷(黙示録16:14-16)で大いなる戦いが起こります。そして、その戦いはエルサレムで終わりを迎えます。この戦いはイザヤ書37章にあるアッシリアとの戦いと1973年のヨム・キプール戦争が予表しています。諸国がイスラエルを攻撃する事は、神は、それはご自身を攻撃したものだと述べています。 6.再臨 諸国がエルサレムを占領し街が囚われると、神には介入以外手がなくなります。天が開かれ、イエシュアは戦いの王、裁き司、軍司令官として戻られ、白い馬に乗って天の軍勢を率いて空中の悪霊の軍や地上の人の敵軍を打ち負かします(マタイ24:27,30;黙示録19:11-19).イエシュアはオリーブ山に立たれ(ゼカリヤ書14:4)、死者(第一の復活)は復活し、聖徒は変貌します(第一コリント15:52,第一テサロニケ4:16). 黙示録19:20-20:3 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。 反キリストの軍と悪魔は地から追いやられるのです。 7.千年紀 戦いの後、イエシュアはエルサレムへ勝利の入城をします。主はご自身の首都をエルサレムに、主の地上の純粋、平和、繁栄の御国を打ち立てます。 イザヤ書2:1-4 [...]

By | 2020-03-26T13:11:53+00:00 March 26th, 2020|Comments Off on 終末時代のまとめ–パート2

終末時代のまとめ–パート1

終末時代のまとめ--パート1 終末についての学びは、とても複雑になりがちで、多くの不確定要素や流動的なところがあります。終末時代の全体像について7つの言葉にまとめてみたいと思います: 艱難 迫害 エクレシア(国々の教会) イスラエル ハルマゲドン 再臨 千年紀 一つづつ、簡単に定義して行きましょう。 艱難 イェシュアは、終末の時代について人々が「ノアの時にあったように...ロトの時にも同じよう 」になると語っています。(ルカ17:26-29)。ノアとロト、両方の時代において、人間社会に恐るべき悪が横行していました。暴力や性的な倒錯がはびこっていました。現在まで私たちは同じ様な傾向を見ており、それはさらに悪化しています。究極的には、モーセの時代の邪悪なパロ帝国の様な、悪の政府が世界を支配します。 聖書は、この地球規模に統一された政府と宗教を「獣」(黙示録13:1)と呼んでいます。 黙示録12:15 へびは女の後に水を川のように、口から吐き出して、女をおし流そうとした。  これには、洪水の様に大量のメディアによる洗脳、誤情報、プロバガンダが含まれます。 迫害 その一番主要な部分は、艱難が義なる者に対して挑むことです。 黙示録13:7  (獣は)聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。 神さまはこの期間、主に属する民を守られますが、それでも彼らは酷い迫害にさらされます。これは真理について証しし、清められ、謙遜になり、強められ、また悪に対する主の義なる裁きを証明するための機会となります。迫害は、イェシュアにある全ての信者、伝統的な結婚の価値観を、イスラエルを、総合的に正しいことを支持する全ての人々がターゲットとなります。イェシュアは「人々は、あなたがたを苦しみにあわせ」(マタイ24:9)ると言われました。 [...]

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万人のための力、ドゥナミス

万人のための力、ドゥナミス 「ドゥナミス」とはギリシャ語で「力」を表し、新約聖書には120回出てきます。同じ語源で「 ダイナマイト」や「ダイナミック」という語があります。その語彙には次の4つの意味があります: 神の強さや力– 「御国と力と栄光は...」(マタイ6:13)。 聖霊さまから来て、私たちの内にある神の強さ 奇跡、癒し、解放 全ての霊的な力(良きにせよ悪しきにせよ、兵器、政治、金銭等を含む)。 ここでは、2つ目の意味、私たちの内に在る神の力に フォーカスしたいと思います。 ルカ9:1-2 イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。 イェシュアは12弟子たちに、力(デュナミス)と権威(エクソウシア)の両方を与えました。この力と権威は、全ての悪霊を凌ぎ、病人を癒すものです。 権威とは力を使用することの法的な権利です。軍隊では兵士たちは武器の使用方法についての研修を受け、最後にその武器を使用するための免許または権威を受け取ります。力自体はその兵器の中にあります。犯罪者は武器の力を利用しますが、それを使う権威は持っていません。一方、兵士や警察官はそれら武器を使用する力と権威の両方を持っています。一般的に言って、正当な権威なしに力を使用することは罪となります。 力と権威 イェシュアは弟子たちに力と権威の両方を授けました。権威は、「イェシュアの御名によって」と言う時にあり、それはその言葉自体だけではなく、私たち自身が主の権威に服従した上で主の御名を用いるのです(ルカ7:7-8)。デュナミスの力は聖霊を通じて私たちのところに来ます。私たちには力と権威が与えられていますが、それは悪霊を追い出し、癒しを行うためだけではなく、福音を宣言するためでもあるのです。解放と癒しは、罪の結果を取り扱っており、福音は罪の元を断ち切ってくれるのです。 私たちは、力と権威無しに、神の御国を進展させることは出来ませんが、力と権威を自分のために求めると、間違った方向(つまり傲慢さや欲望)に進んでしまいます。力と権威を伝道に用いるとき、それが人間のエゴのためであるなら、罪となります(マタイ7:21-22)。 時に神さまは私たちに試練のため困難なところを通らせますが、それは私たちの心の動機を清めるためなのです。イェシュアは40日間の試練の中で、サタンに誘惑を受けました。この試練を通じて、力を受ける準備をされていたのです。私たちもこういった試練を経験する必要があります。時には、その神さまが、私たちに得て欲しいと思われている力とは、単純に、罪に対して「ノー」と言う力なのかも知れません。神さまの思いに私たち自身を合わせるとき、神の生命が私たちを通して現れされます。 私たちはどうなるの? 神さまの力と権威は12弟子たちだけに与えられたのであり、私たちが受け取ろうと思うのは思い上がっていると、ある人々は言います。しかし、ルカ9章でイェシュアは12弟子を訓練し始められますが、ルカ10章では、そのグループを72人に拡げています。主は彼らに暗闇の力を追い出す権威を与えられました。 ルカ10:19 [...]

By | 2020-02-10T16:22:03+00:00 February 9th, 2020|Comments Off on 万人のための力、ドゥナミス
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