About Asher Intrater

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万人のための力、ドゥナミス

万人のための力、ドゥナミス 「ドゥナミス」とはギリシャ語で「力」を表し、新約聖書には120回出てきます。同じ語源で「 ダイナマイト」や「ダイナミック」という語があります。その語彙には次の4つの意味があります: 神の強さや力– 「御国と力と栄光は...」(マタイ6:13)。 聖霊さまから来て、私たちの内にある神の強さ 奇跡、癒し、解放 全ての霊的な力(良きにせよ悪しきにせよ、兵器、政治、金銭等を含む)。 ここでは、2つ目の意味、私たちの内に在る神の力に フォーカスしたいと思います。 ルカ9:1-2 イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。 イェシュアは12弟子たちに、力(デュナミス)と権威(エクソウシア)の両方を与えました。この力と権威は、全ての悪霊を凌ぎ、病人を癒すものです。 権威とは力を使用することの法的な権利です。軍隊では兵士たちは武器の使用方法についての研修を受け、最後にその武器を使用するための免許または権威を受け取ります。力自体はその兵器の中にあります。犯罪者は武器の力を利用しますが、それを使う権威は持っていません。一方、兵士や警察官はそれら武器を使用する力と権威の両方を持っています。一般的に言って、正当な権威なしに力を使用することは罪となります。 力と権威 イェシュアは弟子たちに力と権威の両方を授けました。権威は、「イェシュアの御名によって」と言う時にあり、それはその言葉自体だけではなく、私たち自身が主の権威に服従した上で主の御名を用いるのです(ルカ7:7-8)。デュナミスの力は聖霊を通じて私たちのところに来ます。私たちには力と権威が与えられていますが、それは悪霊を追い出し、癒しを行うためだけではなく、福音を宣言するためでもあるのです。解放と癒しは、罪の結果を取り扱っており、福音は罪の元を断ち切ってくれるのです。 私たちは、力と権威無しに、神の御国を進展させることは出来ませんが、力と権威を自分のために求めると、間違った方向(つまり傲慢さや欲望)に進んでしまいます。力と権威を伝道に用いるとき、それが人間のエゴのためであるなら、罪となります(マタイ7:21-22)。 時に神さまは私たちに試練のため困難なところを通らせますが、それは私たちの心の動機を清めるためなのです。イェシュアは40日間の試練の中で、サタンに誘惑を受けました。この試練を通じて、力を受ける準備をされていたのです。私たちもこういった試練を経験する必要があります。時には、その神さまが、私たちに得て欲しいと思われている力とは、単純に、罪に対して「ノー」と言う力なのかも知れません。神さまの思いに私たち自身を合わせるとき、神の生命が私たちを通して現れされます。 私たちはどうなるの? 神さまの力と権威は12弟子たちだけに与えられたのであり、私たちが受け取ろうと思うのは思い上がっていると、ある人々は言います。しかし、ルカ9章でイェシュアは12弟子を訓練し始められますが、ルカ10章では、そのグループを72人に拡げています。主は彼らに暗闇の力を追い出す権威を与えられました。 ルカ10:19 [...]

By | 2020-02-10T16:22:03+00:00 February 9th, 2020|0 Comments

世界的なアライメントのまとめ

世界的なアライメントのまとめ アシェル・イントレータ アライメントについての私たちの教えが、イスラエルおよび世界中で注目を集めています。アライメントの書籍から、メシニック・ジューと異邦人クリスチャンの間における関係について、特に相互的な従順さ、パートナーシップ、相乗効果について、こちらに引用箇所を集めてみました。 9ページ、世界的なアライメントは 、イェシュア(イエスさま)の再臨に対して準備が整えられるよう、世界中の真のクリスチャンとイスラエルのメシアニック・レムナント(残れる者たち)の正しい関係性に密接に関連しています。アライメントは神さまの命令に対し従順となることで、この地上に主の御国の建設に対し、準備をすることなのです。 17ページ、私たちが優しい心と敏感な良心を持つとき、私は如何なる状況にあっても、この親密さと従順さを求めることとなるのです。 18ページ、アライメント(神さまに向かって方向性を揃えること)とは、全ての人が自分の場所を持ち、それぞれ機能し、それぞれが実を結ぶことが許されている命令なのです。 24ページ、悔い改めはアライメントの最初のステップです。 25ページ、イェシュアを主として崇めているかどうかが、私たちの個人的なアライメントが神さまのご計画と目的に合致しているかどうかを見るための礎石です。 27ページ、霊的なアライメントとは、モラルのアライメントです。 モラルについての洞察力の不足は、私たち多くの者をして「カリスマ派」が常軌を逸していると思わせます。聖霊さまは、「神秘的である」と言うよりも「道徳的である」のです。 43ページ、御国の完全な形での回復は、イェシュアの再臨時のみに起こるのです。 44ページ、私たちは使徒たちから委託された職権を全うするために召されています。私たちは彼らの始めた事を継続していくだけなのです。彼らの世代がその(委託された)大宣教命令を始動させたのです。そして私たちの世代が(願わくば!)それを完成させるのです。 56ページ、再臨の時には、この世の諸王国は、イェシュアと、義の道を歩むことを学んだ人々にその権限を移譲します。 64ページ、イェシュアは教会のかしら(エペソ1:22)であり、イスラエルの王(ヨハネ12:13)でもあります。 80ページ、 アライメントは、直接的従順に比べ、より軽い形態ながらも明確には従順な心が必要とされる権威である。問題は、組織的支配に関するものではなく、この終末の時代に主に仕える正しい方向性についてなのです。 90ページ、アライメントは、イスラエル人レムナントと国際的エクレシア(教会)の間における正しい関係を要求します。円の中に円があり、全てが平等なのです。アライメントは全ての人が含まれることを保証するために設計されたものです。 91ページ、宗教的先入観は民族的誇りをもって人々を疎外しようとしますが、契約的アライメントは、お互い個人個人を敬意をもって好意を持ち、全ての人を含めることを求めます(ローマ12:10)。 111ページ、私たちは使徒15章の評議会について、上の指導者たちがどのように会合を行い、お互いに服従して行くかの聖書的手本として注目します。私たちが「エルサレム会議」なのだと言っている訳ではありません。ただ上級指導者たちが、相互的で関係的なコミットメントや説明責任のため、少なくとも1年に1回は、会合を開くべきだと主張しているのです。 [...]

By | 2020-01-13T13:54:09+00:00 January 13th, 2020|0 Comments

リバイバルのための2語からなる祈り

リバイバルのための2語からなる祈り 私は2語からなる素晴らしい祈りで、国のリバイバルをもたらすものを、発見しました。 ある国が偉大なリバイバルが起こる間際にあるとき、コングリゲーションやミニストリーにおいてある一定の成功レベルが認められます。人数が増え、更に多くの献金が集まり、霊的リーダーたちは有名になり、影響力を持ち、またある場合には裕福になり、名声を得ます。 この祝福のレベルは、エクレシアに国家的変革をもたらし得るツールを提供します。これは、女性が妊娠し胎児の時が満ちるように、必要不可欠なステージです。それでも本当の成功自体には、その中に障害が含まれていて、それらは同時に神の御国の成長を妨げたり、阻止したりします。 神さまの祝福の数々の内には、神を抜きにしてその祝福だけを求める事が、切り離すことのできない誘惑として付随しています。人は怠惰、肉欲、エンターテイメント指向、貪欲、傲慢、反抗になることが可能です。モーセはこの症候群について「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった 」 – וישמן ישורון ויבעט - 申命記 32:15と言及しています。 この世的なものによる誘惑は、いかなる人間にとっても危険なものですが、しかし霊的指導者にとって特に危険なものが、2つあります:ねたみと争い。 ピリピ1:15  人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。 霊的指導者は、互いに張り合おうとする事は可能です。しかし国全体にリバイバルをもたらすために協力する代わりに、彼らはお互いを引っ張り合い始めています。神さまの御国へと触れられる新たな領域、新しい人々を求める替わりに、彼らは自分たちの資源や達成したことについて護りに入っているのです。 ねたみや争い、やがて指導者たちが互いに否定的に言い合うようになり;自分が比較的良く見えるよう、他人を非難するようになります。「霊的洞察力」や「信徒への警告」という外見のもと、無意識のうちに彼らは本質的には、お互いを呪いあい始めるのです。このことは神の人々の内に、分派や破壊をもたらします。 パウロがこれを書いたとき、牢屋の中にいました。彼のして来た全ての働きは他人により、引き継がれました(良い意図でした人も、そうでない人もいました)。ある人々は有名になり、彼のことを悪く言ったのです。彼は孤独で苦しんでいました。しかし問題に注目するのではなく、彼はその中にある祝福に着目することを選び取ったのです。 ピリピ1:18 すると、どういうことになりますか(英文聖書では「So what?/それが、どうしたのでしょうか?」)。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、メシアが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。 それです、国のリバイバルをもたらすことができる2語からなる祈りとは、「SO WHAT!/それがどうした!」です。もし、全ての指導者たちが互いにねたみや争いといった感情を無視し、誰か他人の働きが 成長し、多くの人に影響を与えているのを喜ぶとき、神の御国全体が大きく前にジャンプします。 このことは、全ての霊的指導者に必要な心の清浄化なのです。パウロは、アポロについてこのことを対処しました(第1コリント3章)。ペテロも、ヨハネについてこのことを対処し(例えイェシュアがペテロに十字架に架けられるように言い、ヨハネに永遠に生きるよう言ったとしても、自身をヨハネと比較しないよう、イェシュアはペテロを戒めました [...]

By | 2020-01-07T12:31:47+00:00 January 7th, 2020|0 Comments

文化と民族的発展

文化と民族的発展 イェシュア(イエス)への信仰の最初のコミュニティは、シャブオット(ペンテコステ)の日に始まりました。ガリラヤ出身の「イスラエル人」を中心に120人のユダヤ人信者(使徒1:14)が最初の核でした(使徒1:11、2:7)。 福音書と使徒行伝を注意深く読むと、イェシュアのガリラヤの弟子とユダヤとエルサレム地域の、より宗教的なユダヤ人との間の社会的、民族的緊張間が生じている事が分かります。(マタイ26:733、マルコ14:70、ルカ22:59、ヨハネ7:1、7:52)。 「ガリラヤ人」と「ユダヤ人」の間のその緊張は、今日のメシアニックと正統派ユダヤ人とのの緊張と平行しているのが分かります。 聖霊が注がれたとき、核となるグループはすぐに3千人のより大きなグループに拡大しました(使徒2:41)。これらの人々は、聖なる祝祭日のためにイスラエルの外からエルサレムを訪問していました。「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、」–使徒2:5。これらは、今日私たちが「ディアスポラ(離散)」ユダヤ人と呼ぶものでした。 しかし、他の民族的背景を持つ人々もいました。「ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、」–使徒2:11。(クレタ島はイスラエルに近いヨーロッパの島です。)したがって、グループ全体で以下の人々がいました。 イスラエル」(ガリラヤ人)ユダヤ人 ディアスポラ・ユダヤ人 ユダヤ教改宗者 ヨーロッパ人(クレタ人) アラブ人 多民族の国際的な「教会」は、福音が小アジアとヨーロッパに広がるにつれて、後に発展しました。しかし、異なる種類の枝が元のオリーブの木に接ぎ木されるというパターンは、(ローマ11:17)すでに明らかであり、教会が生まれた初日から教会の基礎に組み込まれました。異なる言語、文化、民族的背景のこの組み合わせは、コミュニティ内の緊張を引き起こしました(使徒6:1)。 外国からの訪問者が帰国すると、福音は彼らの国に広がりました。各民族グループは、自分のアイデンティティ、さらには名称を探しました。「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」–使徒11:26。イスラエル内のユダヤ人の弟子たちは、新しい宗教を始めるのではなく、周囲のユダヤ人コミュニティの不可欠な一部として自分自身を見ていたので、別の「ブランディング(名称)」を求めていませんでした。 異邦人の間の教会の数が増えるにつれて、2つのアイデンティティが発展しました。各国の中で、彼らは「異邦人の教会」と呼ばれました。–ローマ16:4。一方、ユダヤ人の信者は、イスラエルの「残りの人々」と呼ばれました。「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」–ローマ11:5。使徒による会議(使徒15章)は、これら2つのグループが独自の集会のサブカルチャーを発展させることができると決定しました。 福音はヨーロッパに広がっただけでなく、エルサレムの「正統派」ユダヤ人のコミュニティにも浸透しました。何万人もの宗教的ユダヤ人が信仰に来て、ヤコブ(主の兄弟ヤコブの事―ヤコブ書)の周りに集まりました。彼らは、元のガリラヤの弟子とは少し異なる方法で、トーラーとラビ的習慣に忠実に、独自のライフスタイルを維持しました。「彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰に入っている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。」-使徒21:20。 この多民族による多様性は、エルサレム、ユダヤ、サマリア、そして地球の果てまで福音を説く事は、始まりの宣教命令による自然な成長です(使徒1:8)。 福音が今日、地球の果てからイスラエルに戻っているように、イスラエルのメシアニックジューとディアスポラ、すべての部族、言語、国家からのキリスト教徒(黙示録7:4、9)という、紀元1世紀のユダヤ人信者らの状況に幾分平行した状況の驚くべき回復が起こっています

By | 2019-10-25T14:43:32+00:00 October 25th, 2019|0 Comments