May 2020

イスラエル戦没者記念日*における個人的な見方

By | 2020-05-04T12:45:55+00:00 May 4th, 2020|

イスラエル戦没者記念日*における個人的な見方 戦没者記念日は、様々な感情を湧出させ、特に失われた人々を偲ぶ思いを生じさせます。個人的に私自身にも、イスラエルを守るため命を落とした幼馴染みや知り合いがいます。様々な表情、話し方の変化などにより、突然もう会えないそれらの若者たちのことを思い出しました。 これらの愛する人々は私たちの間から取り去られたのです。この小さな国は、現代における再生の時から、約23, 800もの戦死者を出してきました。それに加えること約5千名もの人がテロや敵意に関わる状況下で亡くなっています。これらからの本当の意味での癒しと解放は、私たちの主以外にないのです。これらの家族はそれぞれ、チャレンジや精神力を持っています。 実に、深い悲しみを経験した後においても、生命を選び取っていくことは、崇高で、無私無欲なことなのです。 遺された家族にとって、愛する者が居ないことを感じない日はありません。彼らにとっては、大事であれ小事であれ、楽しいときも、辛いときも、毎日が記念日なのです。 私は、彼ら遺族の前にたたずみ、彼らがいかに、敬愛すべき方法で痛みに耐え、栄光により嘆きを乗り越えているかを見ました。 これら全ての遺された者たちの、より広い意味の「ファミリー」には、都市に住んでいる人もいれば、田舎に住んでいる人もいます。また、西から来た人もいれば、東からの人もおり、多種多様な政治的見解を持った人がいます。世俗派も宗教的な人も、ユダヤ人もアラブ人も、キリスト教、イスラム教も、ベドウィン族もドゥルーズ派、チェルケス人も含まれます。 イスラエルが独立国として建国してから70年経ち、私たちが社会・国家として、相違性により分裂することなく、これら多様なメンバーを包括的に受け入れることが出来る程強力であると言うことが出来れば良いのですが。しかし、道のりはまだまだ長く、主の介入無しには不可能です。 イスラエル社会があらゆる問題により分裂してしまう中で、いかに簡単に遺族の「ファミリー」となってしまうかということは、衝撃的なほどです。 建国から今日に至るまで、我々は本当に大きな代償を払い続けています-- 徴兵制による若い兵士たち、予備役の壮年たち、警察官たちで職務中に突然その命が絶たれた人々がいます。戦没者記念日は、彼らやその家族たちとともに立つ機会なのです。 今迄に手に入れた成果と、イスラエルが乗り越えて来た巨大な課題とともに、私たちは大いなる相違性や意見の違いに関わらず、全てを包括できる社会を、ここに築き上げる必要があります。この国が、私たちが払った代価に相応しい、国々にとって義の光となることが必要なのです。以下の預言的ビジョンが成就する日が、やがて来ることを望んでいます: 「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(イザヤ2:4)。 毎年、私たちは式典に参加します。戦死者やその家族たちのドキュメンタリーを見たり、軍の墓地を訪れ、個人的な、または国を挙げての42時間に渡る追悼に参加します。 追悼のひと時、頭を垂れる時、私は遺された家族たちのことを憶えます。存命中に入隊し苦しんだ友人たちのことを思います。また、もうすぐイスラエル国軍に召集される自分の子供たちのことを、そして私がどの様に彼らに、神さまの御言葉に照らして、自分の国を愛するかについて訓練しようとして来たかを、思います。 *(今年の戦没者記念日は4月28日になります。)

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イエシュアの第一の啓示:エホヴァ、イエスそして裁き

By | 2020-05-04T12:43:41+00:00 May 4th, 2020|

イエシュアの第一の啓示:エホヴァ、イエスそして裁き イエスの御名の原語はイエシュア–ישוע。です。イエシュアはヨシュアの短縮形で、その原語はイェホシュア–יהושע。です。イェホシュアとは、「エホヴァが救われる」という意味で、エホシャファットがיהושפט「エホヴァは裁かれる」という意味となります。 ほとんどの人々はそれを知りませんが、YHVH又はエホヴァという名はイエシュアの御名の中に含まれています。イエシュアが私たちを救うために来られましたが、また、主は裁き、戦い、諸国を支配されるために再臨されます。(黙示録19:11-16)。 終わりの時の出来事を見ていくと、そこには大変な災いや裁きがあり、それらは私たちのほとんどにとって、神学の枠組みや神がどういうお方かという理解を遥かに超えるものです。 終わりの時の出来事と出エジプト記の出来事には、平行する共通点がたくさんあります。あるラビは言いました。「最後の贖いは、最初の贖いに似ている。」メシアが来られる事と世界の終わりは、出エジプト記の中のパターンに基づくものとなります。モーセがメシアの役割を果たしたように。 出エジプト記では、神は壊滅的な災いをエジプトにもたらしました。それは、彼らの帝国を破壊するため、彼らを悔い改めさせるため、そして、人々を解放するためでした。神は人(モーセ)を用いてそれらの災いをもたらすための権威を行使しました。(災いのヘブライ語は「マコット(מכות)」その意味は「打つ」です。なので、「十の災いは」「十の打撃」とも訳せます。) 災いはまた「破壊者」による攻撃とも説明されています。(出エジプト記12:13)。しかしながら、出エジプト記の強調点は、この災いは神による罰であり、それは神の人類の代表によって実行され、すでに決定されている目的のために行われました。各災いの最初と最後はモーセとアロンによって制御され、彼らは神からの直接の命令に従っていました。 これらの種類の出来事は終わりの時に再び起こります。(ダン・ジャスター師の「黙示録:過越の祭の鍵」を参照)ファラオの帝国のような悪の反キリストの帝国が存在する事となります。神はその帝国を巨大な裁きによって破壊します。災いには3つの主要な目的があります。 差し迫った破滅を邪悪な者への警告 罪人を悔い改めと救いに導く 聖徒をより偉大な信仰と純粋に昇華させる 神は地上のご自分の民に、主の裁きに積極的に同意して欲しいと望んでいます。私たちは信仰によって神と協力するのです。モーセとイスラエルの民がそうしたように。私たちの神の理解にどう整合性が取れるのでしょうか。 私たちは神の優しさと厳しさ両方を受け取らなければなりません。(ローマ11:22)神がどういうお方であるのか、私たちの理解を拡大させなければなりません。終わりの時の出来事を理解するために、これらの終わりの時に働かれる神のご性質を理解しなければなりません。イエシュアがどういうお方であるのかが、黙示録の第一章でそれは黙示録の出来事に先立って明らかにされています。 Whenイエシュアが誕生した時、人々にとって神が人の形、普通の栄光をまとわない姿を取る事を理解するのが困難でした。主が死者から復活した後、難しい弟子にとって主がどういうお方なのかを理解するのが困難でした。主は異なった姿で来られ、彼らが主を認識するのに追加の啓示が必要でした。(ルカ24:13-5)。 出エジプト記6:1-8モーセにも似たような経験しました。神はモーセに、神は、人々には「エル・シャダイ」という名で知られていたが、YHVH(エホヴァ)という名では知られていなかったと伝えました。主は続けて、5または6つの方法で国に裁きと贖いをもたらすと述べました。それはYHVHの御名の特性を表しています。 私たちは今似たような状況にあります。私たちはイエシュアを、ガリラヤ湖の湖畔を歩く人として知っています。しかし、主をYHVH-イエシュア、天の軍勢の司令官、全地の裁き司、神の怒りを実行する者、偏在する、全支配者である王としては知っていません。 私たちの前に展開する出来事に対処するため、私たちはイエシュアがどのようなお方なのか、その理解を劇的に変える必要があります。これは、パトモス島にいたヨハネに起こった事でした。ヨブも嵐の中の主という、似たような経験をしました。モーセも燃える柴で、弟子もエマオへの路上で似たような経験をしました。 ヨハネはパトモスでの経験で衝撃を受け、変えられました。私たちは皆個人的なパトモス的な経験をしなければなりません。もし私たちが黙示録のイエシュアに対処出来なければ、黙示録の出来事にどう対処できるでしょうか。 今こそこれが起こらなければなりません。これは、変革への重要な「カイロス」の時なのです。黙示録第一章を読んで理解しましょう。そうすれば、黙示録の出来事を受け入れ、経験する事が出来ます。 律法と預言書では(訳者注:旧約聖書の事)エホヴァ-御使いは、イスラエルの外では、主は栄光の神的な姿で現されますが、主がイスラエル国内にいる時、普通の人の姿を取られていると私は思います。(私の本「誰がアブラハムと食事をしたのか」の、御使い-エホヴァが30か所以上現れる事の説明をどうぞご覧ください。) [...]

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April 2020

ハンナからハンナへ

By | 2020-04-19T14:46:39+00:00 April 19th, 2020|

ハンナからハンナへ 私はハンナ(預言者サムエルの母)の祈りに驚いています。聖書の中で(その他でも)、良いことは女たちの祈りから始まっているように思います。 多くの場合、絶望の祈りを捧げるのは絶望にある女なのです。 ハンナの前にはサラ、リベカ、ラケル、ミリアム、エジプトにて、息子たちが殺された、全てのユダヤ人母親たちがいました。神さまは彼女たちの、不妊やその子供たちに起こった困難を用いて、彼女たちがより深く執り成して祈るよう、梃入れされたのです。 ハンナは不妊であったため、彼女の夫はもう1人妻、ペニナを迎え、その妻から子供たちをもうけました。ペニナは彼女をからかいました。ハンナは、ペニナに比べ信仰深かったのに、「祝福」されていませんでした。彼女は落胆し、苦々しさを感じ、不満を持ち、また少し、神と夫に対し怒りを感じていました(第1サムエル1:7)。 彼女は絶望の祈りをするところまで追い詰められていました(そここそ、最初から神さまが彼女を追い込もうとしておられたポイントだったのです)。ハンナは食事を摂ろうともせず 、ただひたすら泣き、祈っていたのです。 第1サムエル1:10 – ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。 苦悩の底からの祈りで、彼女の魂は神さまに焦点を合わせ、主に誓いを立てました。もし子供に恵まれたなら、その子供を主に捧げると誓いました(11節)。当時、統治する士師もおらず、明快な預言もなく、祭司職は腐敗してしまっていました。この1人の女性の焦点が絞られた祈りと献身が、歴史の全てを変えました。 ハンナの祈りは、ゲッセマネにおけるイエスさまの祈りや、ペンテコステ(シャヴオット)の弟子たちの祈りと比べることができます。祭司のエリは彼女が酔っ払っているのかと思いました(14節)。しかしハンナは「いいえ」と答え、続けて言いました「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。」 第1サムエル1:15。彼女の魂からの注ぎ出しの深さ故に、彼女の祈りは答えられたのです。 彼女の祈りに対する即時的な答えは、「この子」第1サムエル1:27)だったのです。しかしこの子は、ただの普通の子供ではありませんでした。古代イスラエルに、彼は預言の賜物を回復しました。事実、彼は預言の新しい時代を切り拓いたのです。彼は王国に;ダビデ王に油注ぎをもたらし、それは究極的には、やがて来られるメシアのためでした。 預言の賜物は、2章に記されている彼女の歌った讃美のように、第一にハンナにもたらされました。(この「ブレークスルー」を成し遂げた女性のため、聖書の内、2つの章全部が割かれているのです。)彼女の歌には以下の事が啓示されています: 死人の復活:YHVH(主)は殺し、また生かし– 2:6. よみに降り、そして帰ってくる:主はよみに下し、また上げる– 2:6 貧しい人々に対する正義:主は、弱い者をちりから起こし– 2:8 王国の権威:彼らに栄光の位を継がせます– 2:8 裁きの日:YHVHは地の果て果てまでさばき– 2:10 ダビデの王国:ご自分の王に力を授け– 2:10 イェシュアの王国:主に油そそがれた者の角を高く上げられます– 2:10 これは1つの祈りとしては、素晴らしいものだと思います。これは実は、メシアの到来と御国についての預言で、最初の直接的なものとなるのです。彼女にとって、産みの苦しみの祈りにより、サムエルを出産しただけではなく、メシアの御国についての啓示をも産んだのです。彼女はサムエルとともに、霊的にはダビデとイェシュアにとっても産みの親となりました。 彼女の祈りは、ルカ2章にて、ハンナと名付けられた別の女性により、継続されました。残念なことに多くの翻訳ではこの女性はハンナではなく、アンナと呼ばれているため、読者はヘブライ語的な繋がりを見逃すことになってしまいます。ルカ2章のハンナの祈りは、第1サムエル2章のハンナの祈りの続きなのです。 [...]

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過越の祭の世界的なアラインメントと最後の晩餐

By | 2020-04-10T14:13:25+00:00 April 10th, 2020|

過越の祭の世界的なアラインメントと最後の晩餐 訳者注:アラインメント:神のご計画、神の意志に人が合わせる事 何年も、神は私たち、聖霊が内に臨在する世界の信仰の家族を一つにまとめようとされています。私たちはこのビジョンヨハネ17章にあるイエシュアの祈りから受け取りました。それは、神の愛によって皆が一つになるようにというものです。私たちは国際的なエクレシアの現実を経験しています。互いに対する愛が深まるほど、信仰の交わり、コイノニア(小規模な集まり)、そして聖餐式はその質とも量ともかつてないほど成長、改善しています。 私たちはまた、ユダヤ人、アラブ人、そして諸国の人々との間の契約的関係を伴う戦略的アラインメントに入って行っています。そのような世界的な関係の傾向は歴史のどの段階でも起こって来ませんでした。 私たちは今、この国際的な交わりを、神の歴史的な契約の秩序、聖書のカレンダー/暦そして預言的なパターンに沿うよう求めています。しかしながら、どこでも私たちがユダヤのルーツ、世界的なアラインメント、聖なる日々などを話す時、私たちは十分に気を付けなければなりません。それは、すぐにでもバランスを崩してしまうからです。どちらの側でも間違いが起こります。それは、ユダヤ文化に寄せすぎる事や、ユダヤの例祭や象徴にある聖書の重要性を拒否する事です。 私たちが世界的な聖餐式を神の契約パターンに沿わせる時、そこには大いなる霊的な力が解放されるものと信じます。正しいアラインメントは、私たちが正しいバランスを維持する事が求められます。 中央の水平の線–世界的な家族、諸国での聖餐式、この線は全世界を横切ります。これこそ私たちが先週行ったもの–147ヵ国から120、000超の件のオンライン接続がありました。 諸国での聖餐式と過越の祭が交わるところが最後の晩餐です。最後の晩餐は聖餐式でしょうか、それとも過越の祭のセデル(夕食)でしょうか。それは両方でした。ユダヤ共同体とクリスチャン共同体は分裂し、一方は聖餐式に行き、もう一方はセデルに行き、それを合わせる力はありません。 それらを一つにするには、つなげるピン留めは最後の晩餐です。これは完全にユダヤの過越の祭であり、完全にクリスチャンの聖餐式です。このつなぎ目ピンは諸国のエクレシアの聖餐式と過越の祭の契約の食事、すなわちイエシュアと弟子たちの最後の晩餐なのです。 過越の祭と聖餐式は共に最後の晩餐です。この二つが一つになり、同時にそれぞれの特性は維持されます。私たちは二千年間の分離の後、過越の祭と聖餐式を一つにまとめたいと思います。最後の晩餐は交差点なのです。最後の晩餐を理解する事は、聖餐式が過越の祭にアラインメントされる事を表します。 世界中のクリスチャンはユダヤの過越の祭のセデルを守らなければならない、という事ではありません。しかしながら、過越の祭は諸国のクリスチャン聖餐式の源流であり土台なのです。私たちは、クリスチャンに、最後の晩餐をその正しい文脈の中で理解する事によって、過越の祭の中にある契約的土台に再度合わせていくことをお願いしているのです。 ユダヤの世界では、私たちは、過越の祭は最後の晩餐において成就と考えています。過越の祭の小羊、ワインの盃、マッツァ(種無しパン)、などの象徴–全てはメシアであるイエシュアにおいて重要性を持つのです。イエシュア抜きに、過越の祭の象徴は預言的な意味を失います。 最後の晩餐は過越の祭における成就であり、最後の晩餐は聖餐式の土台です。両者は二千年間分離したままでした。今や、諸国のエクレシア、メシアニックジューとクリスチャン・アラブ人を含めて、私たちはこれら二つの大いなる要素を元の一つに戻す機会が与えられています。 これは、歴史をさかのぼって過越の祭を理解するクリスチャンだけの問題ではありません。私たちが過去を理解する時、私たちがどういう未来に行くかが分かります。それは弓矢のようなものです。弓を後ろに引き絞り、矢は前に飛ぶのです。 聖餐式は超自然的な霊的経験です。しかし、その契約的ルーツ抜きで頂く時、そこには何の預言的な指示はありません。最後の晩餐を通して聖餐式が過越の祭に沿わせる時、ベクトル(進路)が形成されます。過越の祭は最後の晩餐に、そして聖餐式に、ある方向に共に指し示す事となるのです。 過越の祭の意味は過去、現在、そして未来です。ラビでさえも、過越の祭は単にファラオやピラミッドなどの過去を覚えるだけのものではないと教えています。過越は、完全な国の贖いとメシアの来臨を期待する事だと教えています。それには、メシアの御国の未来が含まれています。 クリスチャンの聖餐式を契約的源流であるユダヤの過越の祭に沿わせる事は、私たちが終わりの時のイベントに備える事が出来るのです。出エジプト記の物語の要素は、私たちにイエシュアの再臨について教えてくれます。 過越の祭には二つの部分があり、最初は小羊の血による救いであり、そして、紅海における軍事的勝利です。個人的贖いはイエシュアの初臨で成就し、完全な贖いは主の再臨によって成就します。神のパターンに合わせる事は、私たちを正しい方向に向かわせ、終わりの時とイエシュアの御国が訪れる事に対する準備を可能にします。 エジプトから様々な人種の集団が出て行きました(出エジプト記12:38)。それは最初からまさしく神の目的でした。-主は人々の集団を求めていたのです。このような複数の集団は最終的に大いなる集団となり、誰もそれを数える事が出来ません(黙示録7:9)。神は、「特別な人々」と、各国からの忠実な祭司職(出エジプト記19:5-6、第一ペテロ2:5、黙示録1:6、5:10)望まれています。 ユダヤ人、アラブ人、そして各国の民族集団はその「特別な人々」に含まれます。一人一人や、各民族グループは、神の家族では等しく扱われます。諸国のエクレシアが正しいアラインメントに合わせる事で、大いなる力が解放されます。神の栄光ある目的が、主の子どもたちに皆示されるのです。 [...]

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March 2020

終末時代のまとめ–パート2

By | 2020-03-26T13:11:53+00:00 March 26th, 2020|

終末時代のまとめ--パート2 終末についての学びは、とても複雑になりがちで、多くの不確定要素や流動的なところがあります。終末時代の全体像について7つの言葉にまとめてみたいと思います: 艱難 迫害 エクレシア(国々の教会) イスラエル ハルマゲドン 再臨 千年紀 一つずつ、続けて簡単に定義して行きましょう。 5.ハルマゲドン 世界中の霊的な紛争は一つの大戦へと収束されます。この戦いの中心は、世界中の諸国が一つとなってイスラエルに対してしかけてくるものです。(ゼカリヤ書14:1-2,エゼキエル書38-39)諸国が北からイスラエルに侵入してくると、ハルマゲドン(ヘブライ語הרמגידו)またはメギドと呼ばれるジェズリエルの谷(黙示録16:14-16)で大いなる戦いが起こります。そして、その戦いはエルサレムで終わりを迎えます。この戦いはイザヤ書37章にあるアッシリアとの戦いと1973年のヨム・キプール戦争が予表しています。諸国がイスラエルを攻撃する事は、神は、それはご自身を攻撃したものだと述べています。 6.再臨 諸国がエルサレムを占領し街が囚われると、神には介入以外手がなくなります。天が開かれ、イエシュアは戦いの王、裁き司、軍司令官として戻られ、白い馬に乗って天の軍勢を率いて空中の悪霊の軍や地上の人の敵軍を打ち負かします(マタイ24:27,30;黙示録19:11-19).イエシュアはオリーブ山に立たれ(ゼカリヤ書14:4)、死者(第一の復活)は復活し、聖徒は変貌します(第一コリント15:52,第一テサロニケ4:16). 黙示録19:20-20:3 すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。 反キリストの軍と悪魔は地から追いやられるのです。 7.千年紀 戦いの後、イエシュアはエルサレムへ勝利の入城をします。主はご自身の首都をエルサレムに、主の地上の純粋、平和、繁栄の御国を打ち立てます。 イザヤ書2:1-4 [...]

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終末時代のまとめ–パート1

By | 2020-03-20T15:14:43+00:00 March 20th, 2020|

終末時代のまとめ--パート1 終末についての学びは、とても複雑になりがちで、多くの不確定要素や流動的なところがあります。終末時代の全体像について7つの言葉にまとめてみたいと思います: 艱難 迫害 エクレシア(国々の教会) イスラエル ハルマゲドン 再臨 千年紀 一つづつ、簡単に定義して行きましょう。 艱難 イェシュアは、終末の時代について人々が「ノアの時にあったように...ロトの時にも同じよう 」になると語っています。(ルカ17:26-29)。ノアとロト、両方の時代において、人間社会に恐るべき悪が横行していました。暴力や性的な倒錯がはびこっていました。現在まで私たちは同じ様な傾向を見ており、それはさらに悪化しています。究極的には、モーセの時代の邪悪なパロ帝国の様な、悪の政府が世界を支配します。 聖書は、この地球規模に統一された政府と宗教を「獣」(黙示録13:1)と呼んでいます。 黙示録12:15 へびは女の後に水を川のように、口から吐き出して、女をおし流そうとした。  これには、洪水の様に大量のメディアによる洗脳、誤情報、プロバガンダが含まれます。 迫害 その一番主要な部分は、艱難が義なる者に対して挑むことです。 黙示録13:7  (獣は)聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。 神さまはこの期間、主に属する民を守られますが、それでも彼らは酷い迫害にさらされます。これは真理について証しし、清められ、謙遜になり、強められ、また悪に対する主の義なる裁きを証明するための機会となります。迫害は、イェシュアにある全ての信者、伝統的な結婚の価値観を、イスラエルを、総合的に正しいことを支持する全ての人々がターゲットとなります。イェシュアは「人々は、あなたがたを苦しみにあわせ」(マタイ24:9)ると言われました。 [...]

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プリムとイランに関わる霊的闘い

By | 2020-03-08T14:18:40+00:00 March 8th, 2020|

プリムとイランに関わる霊的闘い 今年のプリムは3月の9日と10日に祝われます。 イランについて祈る時です。この国については強力な霊的闘いが繰り広げられており、それはイスラエル、クリスチャン、地域、そして世界に影響を与えています。なので、これはあなたにとっての闘いでもあるのです。 イラン/ペルシャはプリム、エステルの祭りにおいて二重の役割があります。ペルシャの高官ハマンは、ユダヤ人の最大の敵で、ユダヤ人を世界から抹殺しようと企んでいました。その一方、クセルクセス(アハシュエロス)王は、彼の行為によりユダヤ人を責めもしましたが、救いもしました。その二分性は今日も続いています。 イランの代理者であるヒズボラは、先日米国のミサイル攻撃で暗殺された残酷なイラン人司令官、ガーセム・ソレイマニの像を最近公開しました。その像は南レバノンに立っており、イスラエルに向いていて、「イスラエルを無くすこと」で「パレスチナを解放しよう」という意志を示すシンボルとしています。 シーア派のイランは、反イスラエルであるだけではなく、アンチ・クリスチャンでもあります。オープン・ドアーズの提供しているワールド・ウォッチ・リストによると「すべてのペルシャ民族はイスラム教徒として見做される。イスラム教を棄教するペルシャ民族は、『国家の安全を脅かす罪』にて死刑または投獄される可能性がある」とされています。 イランはまた、核兵器開発のあからさまな企てにより、世界に脅威を与えています。論争の的となっている2015年のイラン核合意枠組みでは、経済制裁解除と引き換えに、イランの核開発プログラムを管理し民生使用に制限することとなっていました。2018年、イランが条件を破棄したとして、トランプ政権は合意を撤回しました。 ペルシャ(現在のイラン)のクロス王の治世に、ダニエルは3週間の断食ののち、ペルシャが関わる強力な闘いに、個人的に遭遇します(ダニエル12:1によると、ミカエルがイスラエルの大天使であることに注目ください): ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき...。ダニエル 10:13 聖書のエラムは現在のイランの南西部にありました。エラムは、ノアの息子セムの長男で、セム系の民族であるエラム人となり、祝福の相続人となりました。エレミア49:35-39には、ユダ王国がバビロニアに滅ぼされる前の最後の王で悪名高き、ゼデキアの治世に語られたエラムについての重要な預言を見ることができます。 その預言は明白に、歴史的に成就しましたが、未だ今日の中東には、それに関連した「こだま」が響いているようです。 バビロニアがエラム/ペルシャを滅ぼしました。アケメネス朝ペルシャ帝国の創始者クロス王(BC600-530年)は後日バビロニア帝国を征服し、ネブカデネザル(ネブカドネザル/ネブカデレザル)により散り散りにされた(「天の四隅まで」)ペルシャ人たちは、この時に帰国できたようです。クロスは「回復のおふれ」(第2歴代史36:22-23)を出し、ユダヤ人捕囚民を聖地に帰らせエルサレムの街を再建できるようにしました。 According to イザヤ45:1によると、彼がこの使命を達成できるよう、神さまは彼に油を注ぎ、非ユダヤ人として唯一、聖書的に「メシア」または「油注がれた者」と成りました。このようにして、エルサレムの回復の器とすることで、神さまは「エラムに主の王座を置き」始めたのです。 クロスは、現在のイラン、ファルス州出身で、それは古代のエラムの位置と殆ど同じであり、そこから彼は征服を始めました。そのペルシャ帝国自身も最終的には、ダニエル預言の通り、BC334年からアレキサンダー大王の手により激しく略奪され、打ちのめされました。 エレミアが預言した回復は、その後更にエルサレムで起こったリバイバルにより成就しました。使徒 2:9では、「エラム人」が、ペテロのメッセージに応答した人々の中にいたことが読み取れます、そして確かに福音メッセージを携えて帰途に着いたことでしょう。 神さまによるイランへの打ちのめしと回復は今日も続いています。体制から脱出したイラン人たちは、再度「天の四隅」にて見いだされます。多くのイラン人難民はイェシュアの信者となっており、無意識的にイスラエルを愛しています。十分信頼性のあるオペレーション・ワールドの調査によると、イラン自体においても、教会成長(福音派)は、世界で最も速く、2020年には年に19.6%と、はるかに他をしのいでいます。 イランは、アハシュエロス、クロス、そしてエラムの王ケドルラオメル(創世記14:1および14:4)の時代にそうであったように、地域における指導的立場を取るよう召されています。その指導的立場とは、悪にもなり得、またリバイバルにもなり得ます。私たちはイランのため、ダニエルの霊的闘いに参加し、エラムにて悪を追い出し、主の御座が据えられるよう、主の子供達が、イスラエルが、世界の平安が守られるよう、主に求めていきましょう。

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February 2020

墓に来たマリア:進行性の啓示–パート2

By | 2020-03-05T00:21:00+00:00 February 28th, 2020|

墓に来たマリア:進行性の啓示–パート2 2020年3月8日は国際女性の日となります。 今日の著者、グレタ・マヴロはギリシャでリバイブ・イスラエル/ティックングローバルのミニストリーのため主に仕えています。 マリアが墓を覗くと、二人の御使いがおり、イエシュアの身体が横たえられた場所の一人は頭のあたりに座り、もう一人は足のあたりに座っていました。突然、強力な啓示がマリアに与えられました。それは、私たち皆が必要なもので、それを受けるには、まず身を低くして墓の中を覗き込み、彼女が行ったように私たちの魂が望むように主を求める事が必要です。 「また、純金の『贖いのふた』を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で『贖いのふた』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『贖いのふた』に向かうようにしなければならない。その『贖いのふた』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。机をアカシヤ材で作らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作り、その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作る。」(出エジプト25:17-22) 御使いはマリアの元にやってきて、イエシュアは永遠なる贖いのふたに着かれた事を伝えました。そこは神が私たちと共におられる場所です。彼らはマリアが二人のケルビムの間におられる主と出会うために、準備をされました。マリアは心のままに熱心に求める聖書の中で最良の例です。彼女のように、留まり、身を低くして墓を覗き込み、人の手によって作られていない贖いのふたと出会う事を望む者全ての動機付けとなるのです。 「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」ローマ3:25 イエシュアはマリアの心をご存知でした。主は彼女と親しく交わるために、「二人のケルビムの間」から来られました。最後に、主はマリアの名を呼び、彼女の目が開かれ、主に気づいて「ラボニ」と呼びました。主は彼女に自身の身体に触れないように言いました。主はまだ御父の御許に戻っていないからです。主は、御父の御許に戻る途中、主を失って混乱しているマリアと弟子たちを慰めるために墓に戻ったように思われます。主は、新しい時代へと導くため、マリアに自身にしがみつかない様にと指示しました。主は永遠に覆いを取り除かれました。主は御父の元に昇られ、それが今もこれから永遠に、永続する憐れみを見出すため私たちが主の恵みの玉座に近づく事が出来るのです。主は私たちの贖いのふたで、人の手によって作られていないからです。 「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」ヘブル4:14-16

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墓に来たマリア:進行性の啓示 – パート1

By | 2020-02-25T14:35:56+00:00 February 25th, 2020|

墓に来たマリア:進行性の啓示 – パート1 2020年3月8日は国際女性の日となります。 今日の著者、グレタ・マヴロはギリシャでリバイブ・イスラエル/ティックングローバルのミニストリーのため主に仕えています。 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。第1コリント13:11-13 神さまからの愛が覚醒するとき、主に顔と顔を合わせてまみえる時まで主を求め続けます。そのために、子供じみたことから遠ざかる様になります。私たちが愛するとき、一部だけを知って満足することはありません。私たちが知られているように私たちも知る必要があります。これが神さまからの愛なのです。 ヨハネ20章には、私たちが部分的に知る事から、全体的に、更に完全に知るようになる、強力で進行的な啓示が描かれています。マグダラのマリアが墓で行ったように、主が戻って来られるその時まで待ち望む中で、私たちもこの偉大な関係の満ち満ちたさまの一端を荷なうことができるのです。マリアはイェシュアが死なれた後も、主の一部分を知るだけでは満足しませんでした。彼女の心は更に求めていたのです。 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」 ヨハネ20:1-2 この知らせを聞いて止まってしまう人は多いと思いますが、イェシュアと親密に歩んで来たヨハネとペテロは、墓を調べるため走っていきました。主に愛された弟子ヨハネがペテロを追い越して行き、屈み、亜麻布を見ますが、中には入りません。ペテロが到着し、墓に入り、その亜麻布だけではなく、イェシュアの頭に巻かれていた布切れも、巻かれたまま置いてあるのを見ます。そしてヨハネ自身も墓の中に入り、信じます。二人とも復活の強力な証拠を受けますが、それは一部だけです。二人とも再び家に帰ります。そこまでで探求を止めてしまう人、ましてや主の部分的な情報を受け取り「家路につく」人さえいます。多くの人は、良いメッセージと神学教理、聖会、うまく奉仕できたこと、ある程度までの霊的啓示までで満足し、そこで止まってしまうのです。 主の最も近しく、親密な弟子であったペテロとヨハネさえも、元の普段の生活に戻っているのです。事実ペテロは漁に出て、何をして良いかわからない他の弟子たちを引き寄せています。彼らは一晩中漁をしていましたが、一匹も獲れませんでした。それはイエスさまが既に、彼らに人を取る漁師となるよう召されていたからです。彼らは、その失望の中で、「間違った海で漁をしていた」のです。 しかしマリアは、彼女の古い生き方にもう戻ることができませんでした。「家に帰ること」も叶わず、かつての日常生活に戻ることはできませんでした。イエスさまが彼女の家であり、彼女にとって唯一で最終的な終着点は、主にまみえることだったのです。 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」 彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」ヨハネ20:11-13 マリアは、御使い以上のこと、イェシュアの復活の証拠よりも、主の一部だけよりも、もっと大きなものを求めていました。彼女はイェシュアご自身を求めていたのです!彼女のたましいが愛した方を探していたのです。

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万人のための力、ドゥナミス

By | 2020-02-10T16:22:03+00:00 February 9th, 2020|

万人のための力、ドゥナミス 「ドゥナミス」とはギリシャ語で「力」を表し、新約聖書には120回出てきます。同じ語源で「 ダイナマイト」や「ダイナミック」という語があります。その語彙には次の4つの意味があります: 神の強さや力– 「御国と力と栄光は...」(マタイ6:13)。 聖霊さまから来て、私たちの内にある神の強さ 奇跡、癒し、解放 全ての霊的な力(良きにせよ悪しきにせよ、兵器、政治、金銭等を含む)。 ここでは、2つ目の意味、私たちの内に在る神の力に フォーカスしたいと思います。 ルカ9:1-2 イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。 イェシュアは12弟子たちに、力(デュナミス)と権威(エクソウシア)の両方を与えました。この力と権威は、全ての悪霊を凌ぎ、病人を癒すものです。 権威とは力を使用することの法的な権利です。軍隊では兵士たちは武器の使用方法についての研修を受け、最後にその武器を使用するための免許または権威を受け取ります。力自体はその兵器の中にあります。犯罪者は武器の力を利用しますが、それを使う権威は持っていません。一方、兵士や警察官はそれら武器を使用する力と権威の両方を持っています。一般的に言って、正当な権威なしに力を使用することは罪となります。 力と権威 イェシュアは弟子たちに力と権威の両方を授けました。権威は、「イェシュアの御名によって」と言う時にあり、それはその言葉自体だけではなく、私たち自身が主の権威に服従した上で主の御名を用いるのです(ルカ7:7-8)。デュナミスの力は聖霊を通じて私たちのところに来ます。私たちには力と権威が与えられていますが、それは悪霊を追い出し、癒しを行うためだけではなく、福音を宣言するためでもあるのです。解放と癒しは、罪の結果を取り扱っており、福音は罪の元を断ち切ってくれるのです。 私たちは、力と権威無しに、神の御国を進展させることは出来ませんが、力と権威を自分のために求めると、間違った方向(つまり傲慢さや欲望)に進んでしまいます。力と権威を伝道に用いるとき、それが人間のエゴのためであるなら、罪となります(マタイ7:21-22)。 時に神さまは私たちに試練のため困難なところを通らせますが、それは私たちの心の動機を清めるためなのです。イェシュアは40日間の試練の中で、サタンに誘惑を受けました。この試練を通じて、力を受ける準備をされていたのです。私たちもこういった試練を経験する必要があります。時には、その神さまが、私たちに得て欲しいと思われている力とは、単純に、罪に対して「ノー」と言う力なのかも知れません。神さまの思いに私たち自身を合わせるとき、神の生命が私たちを通して現れされます。 私たちはどうなるの? 神さまの力と権威は12弟子たちだけに与えられたのであり、私たちが受け取ろうと思うのは思い上がっていると、ある人々は言います。しかし、ルカ9章でイェシュアは12弟子を訓練し始められますが、ルカ10章では、そのグループを72人に拡げています。主は彼らに暗闇の力を追い出す権威を与えられました。 ルカ10:19 [...]

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